池辺義象
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(小中村義象から転送)
池辺 義象 | |
人物情報 | |
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別名 | 小中村 義象 |
生誕 |
1861年11月5日 日本・熊本県 |
死没 | 1923年3月6日 (61歳没) |
出身校 | 神宮教院、東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 国文学 |
研究機関 | 宮内省図書課、第一高等学校、京都帝国大学 |
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。
経歴
[編集]出生から学生時代
[編集]1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る[1]。同年、『東洋学会雑誌』を発刊した。
大学卒業以降
[編集]1888年、宮内省図書寮属をへて、第一高等学校嘱託となる。1890年、同校教授に昇格し、女子高等師範学校教授も兼ねた。次いで、帝室博物館歴史部員、史料編纂委員をつとめた。
1898年から1901年までパリに留学[2]。留学時に画家の浅井忠と交流を持ち、パリ留学後に見聞記『仏国風俗問答』を刊行した。
1901年に帰国。翌1902年、京都帝国大学講師に就任。御歌所寄人などを務めた。1923年に死去。墓所は青山霊園にある。
研究内容・業績
[編集]- 「国学改良論」を著して、国学を近代的な学問である「古典学」として再生すべきことを訴えた。
逸話
[編集]大日本帝国憲法制定に携わった井上毅の国典研究の助手を務めた。
家族・親族
[編集]- 実父:池辺軍次は熊本藩士。
- 養父:小中村清矩は国文学者。東京帝国大学の恩師でもある。
著作
[編集]主著に『日本法制史書目解題』、『日本文学史』、萩野由之、落合直文と共編とした『日本文学全書』がある。
著書
[編集]- 『大政三遷史(明治21(1888)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、小中村義象名義
- 『外交』 博文館, 1889
- 『筑紫のあだ波 一名・元寇始末』 大倉書店, 1890
- 『国文講義』 明治講学会, 1893
- 『新撰女子用文』 吉川半七, 1897
- 『世界読本 巻の1 弘文館』, 1901
- 『仏国風俗問答』 明治書院, 1901
- 『欧羅巴』 金港堂, 1902
- 『日本文学史』 金港堂, 1902
- 『摂河泉名勝』 金港堂, 1903
- 『細川幽斎』 金港堂, 1903
- 『長岡少尉』 吉川弘文館, 1905
- 『帝国軍人読本』 厚生堂, 1905
- 『薫世界』 月瀬紀行 山田芸艸堂, 1905
- 『銀台公』 吉川弘文館, 1907
- 『当世風俗五十番歌合』 吉川半七, 1907
- 『武士道美譚』 金港堂, 1909
- 『女子消息かりのつばさ 』文泉堂, 1909
- 『伝授の松 幽斎公小伝』 金港堂, 1910
- 『七卿落』 辰文館, 1912
- 『日本法制史』 博文館, 1912
- 『皇室』 博文館, 1913
- 『日本法制史書目解題』 大鐙閣, 1918
- 『消息新十二月帖』 吉川弘文館, 1918
共著・共編
[編集]校歌
[編集]- 熊本県立熊本高等学校校歌(作曲:岡野貞一), 1910[3]
- 関西大学旧校歌(作曲:弘田龍太郎)
唱歌
[編集]校注等
[編集]参考資料
[編集]- 京都大学大学文書館[5]
- 齋藤智朗2006「明治国学の継承をめぐって-池辺義象と明治国学史-」『國學院雑誌』107巻第11号、173-191頁.