小宮民部
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小宮 民部(こみや みんぶ、文政6年8月23日(1823年9月27日) - 明治2年11月29日(1869年12月31日)[1])は、幕末の小倉藩士。諱は親懐。四郎左衛門、又彦、小三郎とも称す。
経歴
[編集]秋山家に生まれ、天保11年(1840年)、中老の小宮家を継ぐ。嘉永6年(1853年)、家老となり、財政改革に尽力し、農兵隊を設立した。藩主小笠原忠幹の信任厚く民部の名を賜る。慶応元年(1865年)9月、忠幹が没するや、その喪を秘し、幼君豊千代丸(小笠原忠忱)を護り難局に当たった。
慶応2年(1866年)の第二次征長の際は、征長軍総督小笠原長行が去ったため、8月1日に小倉城を自焼させ香春に退却、その責を負い、のち自刃した。
脚注
[編集]- ^ 『幕末維新大人名事典 上巻』(新人物往来社、2010年)p.540