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勢多 (砲艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
常徳 (砲艦)から転送)
勢多
艦歴
計画 1920年度
起工 1922年4月29日(日本)
1923年1月25日(上海、工事着手)
進水 1923年6月30日(上海)
完成 1922年11月(日本)
就役 1923年10月6日
除籍 1945年9月30日(大日本帝国海軍)
1960年代(人民解放軍)
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:330t 常備:338t 公試:383t
全長 56.08m
全幅 8.23m
吃水 1.02m (公試平均)
主缶 ロ号艦本式混焼缶2基
主機 直立2段膨張レシプロ2基2軸 2,100hp
速力 16.0kt
航続距離 1,750NM / 10.0kt
(石炭20t 重油74t)
乗員 62名
兵装 40口径8cm単装高角砲2門
留式7.7mm機銃6挺

勢多(せた)は、日本海軍砲艦勢多型砲艦の1番艦である。

艦歴

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播磨造船所において1922年11月に完成、それを解体し上海に輸送、東華造船会社で組立てを行い、1923年10月6日に竣工、二等砲艦に類別された。

1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。

終戦時には上海で顕在であり、その後、中華民国に接収され国府海軍の「長徳 Chang-Teh」となった。1949年11月30日郝穴等と共に中華人民共和国に投降。「閩江」と改名され、1960年代まで在籍していた。

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長
  • 鈴木幸三 少佐:1923年1月20日 - 1923年10月6日
艦長
  • 鈴木幸三 少佐:1923年10月6日 - 1925年1月6日[1]
  • 岩原盛恵 少佐:1925年1月6日[1] - 1925年11月17日[2]
  • 池田七郎 少佐:1925年11月17日[2] - 1926年6月1日[3]
  • 山崎助一 少佐:1926年6月1日 - 1926年12月1日
  • 河原金之輔 少佐:1926年12月1日[4] - 1927年11月15日[5]
  • 柴田弥一郎 少佐:1927年11月15日 - 1929年10月10日
  • 大谷雄介 少佐:1929年10月10日[6] - 1931年6月5日[7]
  • 来島茂雄 少佐:1931年6月5日[7] - 1932年12月1日[8]
  • 杉本道雄 中佐:1932年12月1日 - 1933年11月1日
  • 中尾八郎 中佐:1933年11月1日 - 1934年11月1日
  • 上条深志 中佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
  • 吉見信一 中佐:1935年11月15日 - 1937年10月7日
  • 寺崎隆治 少佐:1937年10月7日 - 1938年7月27日[9]
  • 近藤三郎 中佐:1938年7月27日 - 1940年6月1日
  • 岸良幸 中佐:1940年6月1日 - 1940年10月5日
  • 宮下亮 少佐:1940年10月5日[10] -

同型艦

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脚注

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  1. ^ a b 『官報』第3710号、大正14年1月7日。
  2. ^ a b 『官報』第3971号、大正14年11月18日。
  3. ^ 『官報』第4131号、大正15年6月2日。
  4. ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  5. ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
  6. ^ 『官報』第836号、昭和4年10月11日。
  7. ^ a b 『官報』第1329号、昭和6年6月6日。
  8. ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
  9. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第217号 昭和13年7月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100 
  10. ^ 海軍辞令公報(部内限)第540号 昭和15年10月5日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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