忌部子人
時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 養老3年閏7月15日(719年9月3日) |
別名 | 子首、首 |
官位 | 従四位上・出雲守 |
主君 | 天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇 |
氏族 | 忌部首→宿禰 |
忌部 子人(いんべ/いみべ/いむべ の こびと/こおびと/おびと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は子首、首とも記される。ただし、忌部首と忌部小首は別人とも指摘される[1]。姓は首のち連、宿禰。官位は従四位上・出雲守。
672年の壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)側について倭京を守備した。天武天皇11年(682年)に帝紀と上古諸事の編纂の一員となり、中臣大島と共に少なくとも編纂初期の執筆の中心になった。これは没後間もない養老4年(720年)に『日本書紀』として完成した。長命を保ち天武朝から元正朝までの五朝に仕え、位階は従四位上に至る。
事績
[編集]天武天皇元年(672年)の壬申の乱の際、大海人皇子に味方して倭(大和国)で挙兵した大伴吹負は、まず倭京(近江大津宮に対し、飛鳥の古い京)を奪い、ついで北に軍を進めた。進軍の途中、7月3日に荒田尾赤麻呂が吹負に本営の古京(倭京)の守りを固めるべきだと進言した。そこで吹負は赤麻呂と忌部首子人を遣わして、古京を守らせた。赤麻呂らは道路の橋板を取り壊して楯に作りかえ、四つ辻に立てておいた[2]。4日に吹負の軍を破って南に進んだ大野果安は、八口に至って高所から京を遠望した。果安は街区ごとに楯が並べられているのをみて、伏兵を疑って引き上げた[3]。『日本書紀』には他に子人の活躍は見えない。
天武天皇9年(680年)連姓を与えられ、首は弟の色弗と共に喜んで天皇を拝した[4]。天武天皇10年(681年)天皇は大安殿で帝紀と上古の諸事を記し定めることを命じた。6人の皇族と6人の他の官人の中に、小錦中忌部連首の名がある[5]。忌部首と中臣大島は自ら筆をとって記録したと特に記され、中心執筆者であったことがわかる[独自研究?]。これが『日本書紀』編纂の着手を意味すると考えられている。天武天皇13年(684年)八色の姓の制定に伴い、忌部連など連姓の50氏族が宿禰姓を与えられた[6]。
大宝元年(701年)大宝律令の施行を通じて従五位下に叙せられ、翌大宝2年(702年)従五位上に進む。慶雲元年(704年)伊勢太神宮に遣わされ、幣帛・鳳凰鏡・窠子錦を供えた。和銅3年(710年)出雲守に任ぜられると(この時の位階は正五位下)、和銅4年(711年)正五位上、和銅7年(714年)従四位下と元明朝で順調に昇進し、元正朝の養老2年(718年)従四位上に至る。
養老3年(719年)閏7月15日に卒去。最終官位は散位従四位上。『日本書紀』完成を舎人親王が天皇に報告したのは、翌年5月21日であった。
官歴など
[編集]『六国史』による。
- 天武天皇元年(672年) 7月3日:壬申の乱において荒田尾赤麻呂と共に古京を守備
- 天武天皇9年(680年) 1月8日:首姓から連姓に改姓
- 天武天皇10年(681年) 3月17日:帝紀と上古の諸事の編纂を命じられた(冠位は小錦中)
- 天武天皇13年(684年) 12月2日:連姓から宿禰姓に改姓
- 時期不詳:従五位下
- 大宝2年(702年) 3月11日:従五位上
- 慶雲元年(704年) 11月8日:伊勢神宮に幣帛
- 時期不詳:正五位下
- 和銅3年(710年) 3月13日:出雲守
- 和銅4年(711年) 4月7日:正五位上
- 和銅7年(714年) 1月5日:従四位下
- 養老2年(718年) 1月5日:従四位上
- 養老3年(719年) 閏7月15日:卒去。最終官位は散位従四位上。