志賀親度
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(志賀道易から転送)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文4年(1535年)? |
死没 | 天正15年(1587年) |
改名 | 親度→道益または道易(法名) |
別名 | 親教、親慶、親孝 |
官位 | 民部大輔 |
主君 | 大友義鎮(宗麟)→義統 |
氏族 | 志賀氏 |
父母 | 父:志賀親守 |
兄弟 | 親度、清田鎮乗[1]、志賀親成[2]、親次[3]、戸次鎮連室、吉弘統幸室 |
妻 | 大友義鎮養女(実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の娘[4])[5] |
子 |
松野左門(長岡殿)、佐伯権之助惟重の母、朽網氏の室、甚吉(吉岡統増) 養子:浄閑、親次 |
志賀 親度(しが ちかのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親守の子。
生涯
[編集]志賀氏は、田原氏、詫摩氏と並ぶ大友三家の一角である。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、それぞれ隆盛した。
天文19年(1550年)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし天正6年(1577年)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。
これに恨みを抱いた親度は、薩摩国の島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、天正14年(1586年)島津氏が侵攻(豊薩合戦)すると、南志賀家(志賀鑑隆・鎮隆父子ほか)と共に島津軍に味方することとなる。この戦いで、北志賀家の惣領である子親次はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、居城・岡城を守り抜いたため、大友氏は滅亡から免れることとなる。このため翌年、九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。
なお、義統と不仲になった理由については、主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、囲っていたことが露見し、蟄居させられたため、これを長年恨みに思っていたと『上井覚兼日記』に記されている。また、熱心な仏教徒であり、反キリスト教の人物であったため、子・親次の受洗にも猛反対したもされ、これも義統や大友家へ対しての反逆心の理由となったとされる。
出典
[編集]- ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると、凉泉院は清田鎮乗寿閑の妻。養母は大友宗麟の娘 エピローグ「清田家系図 志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。
- ^ 林宗頓、洗礼名はゴンサロ。『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)と結婚した。
- ^ 『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。親次の父は実に長兄・親孝(親度)。親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
- ^ 田北学先生の『増補訂正編年大友史料』や毛利家史料『右田毛利家文書』、『陰徳太平記』によると「宗麟はおじ服部右京亮の嫁(奈多夫人)を奪い、彼女に生まれた子は小早川秀包の嫁・毛利マセンシア」。『フロイス日本史』によると、奈多夫人は大友宗麟の親戚・先夫との1人娘が志賀家(志賀親度)に嫁ぐ、宗麟との娘は毛利マセンシア。
- ^ 「大友氏顕と志賀親度」(PDF)『大友氏顕彰会だより おおとも』第23号、2016年2月1日。