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志賀親度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
志賀道易から転送)
 
志賀 親度
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文4年(1535年)?
死没 天正15年(1587年
改名 親度→道益または道易(法名)
別名 親教、親慶、親孝
官位 民部大輔
主君 大友義鎮(宗麟)義統
氏族 志賀氏
父母 父:志賀親守
兄弟 親度清田鎮乗[1]志賀親成[2]親次[3]戸次鎮連室、吉弘統幸
大友義鎮養女(実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の娘[4][5]
松野左門(長岡殿)、佐伯権之助惟重の母、朽網氏の室、甚吉(吉岡統増
養子:浄閑親次
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志賀 親度(しが ちかのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。北志賀家・志賀親守の子。

生涯

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志賀氏は、田原氏詫摩氏と並ぶ大友三家の一角である。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、それぞれ隆盛した。

天文19年(1550年)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし天正6年(1577年)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。

これに恨みを抱いた親度は、薩摩国島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、天正14年(1586年島津氏が侵攻(豊薩合戦)すると、南志賀家(志賀鑑隆鎮隆父子ほか)と共に島津軍に味方することとなる。この戦いで、北志賀家の惣領である子親次はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、居城・岡城を守り抜いたため、大友氏は滅亡から免れることとなる。このため翌年、九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。

なお、義統と不仲になった理由については、主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、囲っていたことが露見し、蟄居させられたため、これを長年恨みに思っていたと『上井覚兼日記』に記されている。また、熱心な仏教徒であり、反キリスト教の人物であったため、子・親次の受洗にも猛反対したもされ、これも義統や大友家へ対しての反逆心の理由となったとされる。

出典

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  1. ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると、凉泉院は清田鎮乗寿閑の妻。養母は大友宗麟の娘 エピローグ「清田家系図 志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。
  2. ^ 林宗頓、洗礼名はゴンサロ。『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)と結婚した。
  3. ^ 『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。親次の父は実に長兄・親孝(親度)。親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
  4. ^ 田北学先生の『増補訂正編年大友史料』や毛利家史料『右田毛利家文書』、『陰徳太平記』によると「宗麟はおじ服部右京亮の嫁(奈多夫人)を奪い、彼女に生まれた子は小早川秀包の嫁・毛利マセンシア」。『フロイス日本史』によると、奈多夫人は大友宗麟の親戚・先夫との1人娘が志賀家(志賀親度)に嫁ぐ、宗麟との娘は毛利マセンシア。
  5. ^ 大友氏顕と志賀親度」(PDF)『大友氏顕彰会だより おおとも』第23号、2016年2月1日。