撃剣興行
撃剣興行(げっけんこうぎょう)は、明治初期に剣術の試合を見世物として行った興行である。剣術ないし剣道の歴史上、明治維新期という、あらゆる物事に対する毀誉褒貶が短期間に何度も極端に入れ替わった特殊な世相を背景に発生成立したもので、短期間ではあったがその技と文化の継承に影響した。
概要
[編集]明治維新による改革(廃藩置県、秩禄処分、散髪脱刀令及び廃刀令)によって生活は困窮していった者がいた。特に西洋軍制の導入によって活躍の場を失った剣術指導を行っていた者は以前の職務を生活の糧に転じさせる術がなく深刻なものがあった。
これを憂えた旧江戸幕府の講武所剣術教授方(師範)であった榊原鍵吉は相撲興行を参考にして剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案、東京府知事・大久保一翁もこれに賛同して、1873年(明治6年)4月[注釈 1]。から10日間、東京浅草の左衛門河岸(現在の浅草橋駅西方)にて初めての撃剣興行を行った。来客は満員御礼を超えた。
土俵のような試合場に、派手な衣装の選手が東西に分かれ、呼出、行司、見分役を設けた。薙刀や剣舞なども登場した。撃剣興行は物珍しさからブームになり、番付や錦絵も売り出された。
これに刺激された2代目斎藤弥九郎(斎藤新太郎)、千葉東一郎、千葉之胤、島村勇雄、渡辺楽之助など他の剣術家も争って撃剣会を結成し撃剣興行を催した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。
しかし、興行の乱立によって質が低下して、更に勝敗の判定が素人には分かりにくくブームは短期間で終わった。また、政治運動の演説会の人集めのために開かれる興行も現れたため、いくかの県で撃剣興行は禁止された。
1877年(明治10年)頃に復活し始めたが、1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛を創設され巡査の撃剣稽古が奨励されるようになると、撃剣興行の剣客たちは警察に登用された。実力のある剣客を警察に引き抜かれた撃剣会は興行的魅力が無くなった。このため、撃剣会はこの頃から団体で各地を廻りながら、その土地の警察署で稽古し、興行を行うといった一種の団体武者修行のようなものに変質していった[1]。
評価
[編集]肯定的側面もあれば否定的側面もあり、その評価は難しい。否定的側面としては、「剣術の見世物化」として剣の道を低く見るという批判や、客寄せのための派手な動作や異様な掛声などが、その後の剣道に悪影響を及ぼしたとする見方がある。一方、肯定的側面としては、難しい時代において、剣術の命脈を保ったものと評価されている。
高野佐三郎は次のように評している。
また、撃剣興行の悪影響を受けているとされる「引き上げ」について、済寧館における渡辺昇と海江田信義との異種試合を例として次のように評している。
有名な維新の志士渡辺昇子爵と海江田信義子爵との、4尺5寸の長竹刀に薙刀の対戦でありました。渡辺子爵は大上段に振りかぶり、薙刀を持った海江田子爵の籠手に、物の見事に打ちを入れて、立派に極まりました。そこで、当時の流行であった興行剣術の名残りとでも申しますか、片手を離して左手に竹刀を高くかかげ「籠手ー」と云って引き上げと云うのを行いました。ところが一方の海江田子爵はと見ると、満面朱をそそぎ、後を向いて引き上げて行く渡辺子爵の後を追うて行きます。そして、近付くや、矢庭に薙刀を振って、「ビンター」と叫ぶと同時に、渡辺子爵の横面をいやと云うほどたたきました。渡辺子爵はこの不意打ちには一驚を喫したのでしょう。「コラ、無礼するな」と大声一喝を酬いました。海江田子爵は、「何が無礼か。無礼はおはんじゃ。敵を斬って後を向くと云う法があるか。この海江田は腕の一本位では決して死にはせぬぞ」といいました。当時の海江田子爵は、沖縄県知事をやめて帰ったばかりのころであったから、あきれ返った渡辺子爵は、「さてさて、知事さんとはよいもんじゃ。わがまま出来てよいもんじゃ」といいました。これらは他の人たちがやったのなら困りますが、この辺の方々は、無理がなく、まことに余裕と洒落が横溢していて、いまでも当時が懐かしく思い出されます[2]。
小説
[編集]- 津本陽『明治撃剣会』
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 中林信二「撃剣興行」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)
- 石垣安造『撃剱会始末』、島津書房
- 中村民雄・渡辺一郎・中林信二「文明開化と武道 -撃剣興行を中心として-」(『武道学研究』第8巻第2号 日本武道学会 1975年)