コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

星野恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
星野恆太郎から転送)
星野恒

星野 恒(ほしの ひさし、1839年8月15日天保10年7月7日〉 - 1917年大正6年〉9月10日)は、日本国史学者・漢学者東京帝国大学教授。名は世恒、は徳天、通称は恒太郎(ひろたろう)、号は豊城。

来歴

[編集]

越後国蒲原郡白根町(現在の新潟県新潟市)生まれ。万延元年(1860年江戸に出て塩谷宕陰について漢学を学び、明治8年(1875年修史事業に参加、明治14年(1881年)編修官に任ぜられ、明治21年(1888年)10月帝国大学文科大学(現在の東大文学部)教授に転任、明治24年(1891年)8月文学博士の学位を受け[1][2]、明治39年(1906年帝国学士院会員となり、明治44年(1911年史学会評議員長となる。

大正6年(1917年)、脳出血のため死去[3]

業績

[編集]
  • 明治12年(1879年)から明治18年(1885年)にかけて『国史纂要』を著す。
  • 1890年重野安繹久米邦武とともに『国史眼』を編纂した。同1890年、「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文を発表、スサノオが「新羅の主」であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに日鮮同祖論として形成される言説の先駆となった。
  • 明治26年(1893年)、久米邦武筆禍事件により久米、重野とともに編修官を解任されている。
  • 明治32年(1899年)、『竹内式部君事蹟考』を発表。
  • 明治42年(1909年)『史学叢説』を著した。

著書

[編集]

単著

[編集]
  • 『竹内式部君事蹟考』冨山房、1899年7月。 NCID BN10314791全国書誌番号:58005253 

草稿

[編集]

編集

[編集]

校閲

[編集]

栄典・授章・授賞

[編集]
位階
勲章等

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第2447号、明治24年8月25日、p.250
  2. ^ 8月14日に文部省で行われた学位授与式において星野は学位承受者総代として謝辞を述べている。(『官報』第2448号、明治24年8月26日、p.261
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)269頁
  4. ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
  5. ^ 『官報』第311号「叙任及辞令」1913年8月12日。
  6. ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
  7. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  8. ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。

参考文献

[編集]

関連事項

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
重野安繹(→廃止)
史誌編纂委員長
日本の旗 東京帝国大学文科大学史料編纂掛物品管理者
1897年 - 1899年
帝国大学文科大学史料編纂掛物品管理者
1895年 - 1897年
次代
三上参次
文科大学史料編纂掛主任
学職
先代
重野安繹
会長
史学会評議員長
1910年 - 1917年
次代
坪井久馬三