今大路道三
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正5年(1577年) |
死没 | 寛永3年9月19日(1626年11月7日) |
改名 | 親純→親清(諱) |
別名 | 玄鑑(号[1][2])[注釈 1]、亀渓(字[1])、兵部大輔[2][注釈 2] |
墓所 | 早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本) |
官位 | 従五位下典薬助 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠 |
氏族 | 曲直瀬氏(曲直瀬今大路家) |
父母 |
父:曲直瀬玄朔(二世道三) 母:初代曲直瀬道三の養女[3] |
兄弟 | 女子(曲直瀬正琳妻)、親清(玄鑑、三世道三)、曲直瀬玄益、女子(片山延康妻)、女子(曲直瀬正因妻→岡本諸品妻)、女子(浦野与一郎妻→田中清六妻)、女子(岡野井氏妻)、女子 |
妻 | 渡辺宮内少輔某の娘[3] |
子 | 祐知[注釈 3]、女子(石尾治昌妻)、親昌(玄鎮、四世道三)、女子(後藤広世[注釈 4]妻)、女子(古田重弘妻)、女子(真瀬玄隆妻) |
今大路 道三(いまおおじ どうさん)は、安土桃山時代・江戸時代の医師[1][2]。曲直瀬玄朔(二世道三)の子。名は親純、親清[1][3]、号は玄鑑[1][2]。後陽成天皇より今大路の家名を賜り[3]、剃髪してのちに道三と称する[3](三世道三[2])。曲直瀬玄鑑[4]の名でも呼ばれる。今大路家は、初代曲直瀬道三の門人が興した曲直瀬各家の宗家となり[2][5]、道三を襲名して代々幕府の典薬頭(奥医師の上席)となった[5]。
略歴
[編集]父は曲直瀬玄朔(二世道三)。母は初代曲直瀬道三の養女[3](実の孫娘[5])。父より医術を学ぶ[1][6]。
幼少より徳川秀忠に小姓として仕える[3]。天正20年(1592年)2月28日、16歳の時に従五位下典薬助に任じられて昇殿を許され[3]、後陽成天皇に拝して橘姓と今大路の家号を賜った[1][3]。その後剃髪し、僧位は慶長4年(1599年)12月28日に法眼、慶長13年(1608年)4月5日に法印に昇った[3]。
慶長13年(1608年)に徳川秀忠より700石の知行地(上総国武射郡・下総国印旛郡の内)を賜る[3]。慶長19年(1614年)の大坂の陣に従軍した[3]。
元和9年11月(1624年1月)、東福門院の難産を救い[1][3](この時誕生したのが後の明正天皇である)、秀忠から脇差を賜った[3]。
寛永3年(1626年)に将軍徳川家光と大御所秀忠が上洛した際、道三も秀忠に従って上洛したが、崇源院が重態に陥ったためにその治療を命じられ、急ぎ江戸へ向かった[3]。しかし道三自身も帰東の途上発病し[2][注釈 5]、9月19日に箱根宿で死去(50歳)[3]。箱根湯本の早雲寺に葬られた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “今大路道三”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 宗田一. “今大路道三”. 朝日日本歴史人物事典. 2020年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第五百九十三「今大路」
- ^ “曲直瀬玄鑑”. 美術人名辞典. 2020年1月3日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c 宗田一「曲直瀬(今大路)家系の疑問」『日本医史学雑誌』第34巻第1号(1988年)
- ^ 山田恵美「曲直瀬玄朔の門人について」『日本医史学雑誌』第59巻第2号(2013年)