書智徳
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(書直智徳から転送)
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 持統天皇6年5月20日(692年6月9日)? |
別名 | 知徳、氏:文 |
官位 | 贈直大壱 |
主君 | 天武天皇→持統天皇 |
氏族 | 書直→連→忌寸 |
子 | 塩麻呂 |
書 智徳(ふみ の ちとこ)は、飛鳥時代の人物。氏は文、名は知徳とも書く。姓は直のち連、忌寸。冠位は贈直大壱。子に塩麻呂がいた。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇) 方功臣。
経歴
[編集]弘文天皇元年(672年)壬申の乱の勃発時、書智徳は大海人皇子の舎人であり、6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発った際、草壁皇子・忍壁皇子や20人ほどの他の舎人と共に智徳は皇子に当初から従った[1]。
天武天皇10年(681年)小錦下の冠位と連の姓を与えられる[2]。天武天皇14年(684年)八色の姓の制定に伴い、書氏は連姓から忌寸姓に改姓している。また、持統朝に入ってから、壬申の乱の功労により100戸の封戸を与えられている[3]。
持統天皇6年(692年)5月20日に直大壱(正四位上相当)の冠位と賻物(葬儀の際の贈り物)を贈られた[4]。この日か直前に死んだと推定される。
大宝元年(701年)大宝律令が施行された際、大宝令の功封条に従って、かつて智徳に与えられた封戸100戸の1/4が子息に相続され[3]、元正朝の霊亀2年(716年)には壬申の乱の功臣の子息として、智徳の子の塩麻呂(位階は従七位上)が功田を与えられている[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社学術文庫、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年