永地秀太
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(有吉秀太から転送)
永地 秀太(ながとち ひでた[1]、旧姓:有吉秀太、1873年(明治6年)7月15日 - 1942年(昭和17年)12月14日)は、明治-昭和前期の洋画家[1]。太平洋画会 創立メンバー[2]、陸軍嘱託画家[3]、文展(旧帝展)審査員[2]、旧東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)教授。1923年、レジオンドヌール勲章受章。
経歴
[編集]- 1873年 山口県下松市(現・周南市)造り酒屋を営む有吉家に生まれる
- 徳山中学卒業後上京、本多錦吉郎の画塾・彰技堂で学ぶ
- 1892年-1895年 明治美術会附属教場入学-卒業。松岡寿に師事。
- 1902年 太平洋画会創設に参加[2]
- 山口県吉敷郡の大地主への入婿により、姓が有吉から「永地」に変わる(太平洋画会関連では「有吉秀太」で残っているものが存する)
- 1920年-1923年 文部省在外研究員として主にフランス、アメリカを外遊・視察
- 陸軍幼年学校教員、陸軍嘱託画家[3]
- 文展審査員
- 1922年 東京高等工芸学校工芸図案科教授(現・千葉大学工学部)仏国官設美術展準備委員会委員
- 1923年 フランス政府よりレジオンドヌール勲章授与
- 1942年12月14日 淀橋区(現・新宿区下落合)目白文化村の自宅で脳溢血により死去
代表作品
[編集]- 1903年『静物』(文展 褒状) 山口県立美術館 所蔵
- 1911年『日本海々戦の敵前大回頭』海軍館陳列[4]
- 1913年『絞り』(文展 三等賞)
- 1924年『更紗の前』山口県立美術館所蔵
- 1922年『風景』
- 1925年『壁に倚れる女』
- 1929年『下関講和談判』 聖徳記念絵画館 所蔵
- 1933-1942年『吉田松陰』 キャンバス油彩 額装 181x150cm 神宮徴古館蔵[5][6]
- 1933-1942年『昭憲皇太后の傷病兵慰問』 キャンバス油彩 額装 150x180cm 神宮徴古館蔵[5]
- 1933-1942年『韓国併合』 キャンバス油彩 額装 150x180cm 神宮徴古館蔵[5]
- 『中山忠光朝臣肖像画』山口県下関市中山神社所蔵[7]
寄稿
[編集]- 会頭としての黒田先生 国民美術1-9 大正13年9月
商業広告デザイン
[編集]- 三越デパート包装紙 出典 [図録 もうひとつの明治美術]
- 麒麟麦酒ラベル 出典 [図録 もうひとつの明治美術]
関連
[編集]- 黒田清輝日記 [1]、[2]
- 『装丁探索』『修養全集』第2巻(「東西感動美談集』、大日本雄弁会講談社、昭和3年)掲載 岸井新「喪服の遺臣」の挿繪 落款 三種 [3]
- 下関講和談判 [4]
- 『図録 もうひとつの明治美術』[5]
- 東京文化財研究所 アーカイブ 陸軍嘱託画家
- 記事番号:00341
- 年月:1938年05月
- 前記上海軍嘱託として従軍した作家等の外、川端竜子、鶴田吾郎は五月末北支より蒙疆へ、中沢弘光、伊原宇三郎は天津北京を経て山西方面に栗原信は徐州方面に、又八月、九月には石川寅治、石井柏亭、永地秀太、和田香苗、早川三四郎が前後して北支方面に、いづれも陸軍嘱託として従軍することになつた。
- 『日本美術年鑑』昭和18年
- 美術界年史(彙報)
- 1936年07月 海軍館陳列画執筆者決定
- 1938年05月 陸軍嘱託画家
- 1938年12月 昭和十三年中陸軍嘱託画家
脚注
[編集]- ^ a b “永地秀太”. コトバンク. 2017年2月18日閲覧。
- ^ a b c 東京文化財研究所 (東文研)アーカイブデータベース
- ^ a b 東文研アーカイブデータベース 記事番号:00418 年月:1938年12月
- ^ 海軍館陳列画執筆 東文研アーカイブデータベース 記事番号:00111年 1936年7月
- ^ a b c 小堀桂一郎監修 所功編著 『名画にみる 國史の歩み』 近代出版社、2000年4月19日、pp.70,81,86、ISBN 978-4-907816-00-1。
- ^ 松下村塾と吉田松陰 2
- ^ 兼富忠一『中山神社誌』主要宝物及貴重品リスト記載、1943年発行
出典
[編集]- 下関市立長府博物館 中山忠光卿肖像画 写真企画展「The Last Days-長州藩攘夷の終焉」(2014年)
- 明治神宮聖徳記念絵画館 No.62
- 山口県立美術館