右田弘詮
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大永3年10月24日(1523年12月1日) |
改名 | 昌瑞(号) |
別名 | 三郎[1]、右田中書[1]、陶弘詮、朝倉弘詮 |
戒名 | 鳳梧真幻昌瑞、鳳梧昌瑞大禅定門[2] |
官位 | 従五位下、中務大輔、兵庫頭[1]、安房守[1] |
主君 | 大内政弘→義興 |
氏族 | 陶氏→右田氏→陶氏 |
父母 | 父:陶弘房[1]、母:仁保盛郷娘[2] |
兄弟 | 弘護[1]、弘詮 |
子 | 興就、隆康[2]、娘(陶興房妻)[2] |
右田 弘詮(みぎた ひろあき)は、戦国時代の武将。大内氏の重臣。長門国諏訪山城主。同じく長門国矢田城主とも伝えられる。
生涯
[編集]周防国の戦国大名・大内氏の家臣である陶弘房の子として誕生。主君・大内政弘から「弘」の一字を授与された。父・弘房は同族の右田弘篤の跡を継いでいたが、寛正6年(1465年)に兄(弘詮の伯父)の弘正が戦死したため陶家の家督を相続、代わって次男である弘詮に右田家を継がせたという[2][注釈 1]。
文明10年(1478年)7月、兄・弘護とともに九州に渡り、少弐氏と戦ってこれを滅ぼす。翌年兄に代わって筑前国の守護代となる[4]。ところが文明14年(1482年)、兄・弘護が不慮の死を遂げ、その子達が幼かったため、主命により陶氏に戻り兵庫頭を名乗る[2]。
弘護の三男の興房が成人するまで、番代(当主代行・後見人)と周防及び筑前両国の守護代職を務め、政弘の子である主君・大内義興の上洛中は留守を守って領内の政務を執り行った。系図類には「暫称陶氏」と書かれ[2]、右田姓に復したとされているが、現存の古文書ではその事実を確認できず、陶姓を通したと考えられている。
初め中務大輔を名乗っていたが、永正15年(1518年)には従五位下安房守に任じられた。後に(鳳梧真幻)昌瑞と号し、死後の戒名となった。大永3年(1523年)10月24日、筑前国筥﨑において病死した[2]。子の隆康が跡を継いだが、永正14年(1517年)の時点で家督を譲っていたともいう。
弘詮の娘は甥・陶興房の妻となり、その間に生まれた子が大寧寺の変を引き起こす隆房(晴賢)である。また、一族の陶隆満は弘詮の子ともいわれる。
『吾妻鏡』の収集・校訂
[編集]弘詮は文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交があった。弘詮はそれら文化人から「吾妻鏡と号す」「関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていたがなかなか目にすることが出来なかったという。
しかし文亀元年(1501年)頃、その写本42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。それは治承4年(1180年)から文永3年(1266年)と、現在知られる範囲ではあったが、尚その間に20数年分の欠落があった。
このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または往還の賓客に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至るまで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。大永2年(1522年)9月5日のことである。その後書きにはこう記されている。
望む人ありといえども、かつて披見を許すべからず。暫時たりといえども室内を出すべからず。いわんや他借書写においておや。もし子孫において、この掟に背かば、不孝深重の輩となすべし。
上記の大寧寺の変の後、難を逃れた隆康の次男・元弘は安芸の毛利元就を頼った。この際に弘詮の『吾妻鏡』も毛利氏に献上され、元就の次男・吉川元春の子孫に伝わることとなった。そのため、弘詮の『吾妻鏡』は今日では“吉川本”と呼ばれている。記事に3年分の欠損はあるが、現在では吾妻鏡の最善本と目されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 近藤清石『国立国会図書館デジタルコレクション 大内氏實録』 付録、中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 。
- 福尾猛市郎 著「陶弘詮」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第8、吉川弘文館、1987年10月。ISBN 978-4-642-00508-1。 NCID BN00117433。全国書誌番号:88006183。
- 和田秀作「周防右田氏の相伝文書について」(PDF)『山口県文書館研究紀要』第41号、山口県文書館、2014年3月、ISSN 0286-9047、NAID 40020084193、NCID AN00243575、2017年6月15日閲覧。