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朱履龢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朱履ワから転送)
朱 履龢
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1877年光緒3年)
死去: 1945年民国34年)4月13日
中華民国の旗 中華民国 南京特別市
出身地: 清の旗 浙江省嘉興府嘉興県
(現:嘉興市
職業: 政治家・司法官
各種表記
繁体字 朱 履龢
簡体字 朱 履龢
拼音 Zhū Lǚhé
ラテン字 Chu Lü-ho
和名表記: しゅ りわ
発音転記: ジュー リューホー
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朱 履龢(しゅ りわ)は中華民国の政治家・司法官。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。笑山。「朱履和[1] と表記される例もある。

事跡

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イギリス留学経験を持ち、帰国後は、法権討論会と関税特別会議で秘書をつとめた。

1927年民国16年)6月、国民政府外交部総務司司長となる。10月、同部第二司司長に異動した。翌年2月、司法部秘書長となり、翌月、司法部次長に昇格している(11月、同部政務次長となる)。1930年(民国19年)4月、魏道明の後任として司法行政部長代理に就任する。12月、立法院立法委員も兼任した。翌年12月、羅文幹の司法行政部長就任とともに、政務次長に戻る。1932年(民国21年)1月、政務次長からも退いた。

1938年(民国27年)8月、中華民国維新政府の司法行政部次長に任命された。翌年5月、新設された最高法院院長に就任している。1940年(民国29年)3月、汪兆銘南京国民政府が成立すると、朱履龢は司法院副院長と中央政治委員会列席委員に任命された。同年4月、中央公務員懲戒委員会委員長に任命されている。

1945年(民国34年)4月13日、死去。享年69。

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  1. ^ 『民国職官年表』634-635頁など。

参考文献

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  • 鄭仁佳「朱履龢小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
中華民国の旗 中華民国
先代
魏道明
司法行政部長(代理)
1930年4月 - 1931年12月
次代
羅文幹
中華民国維新政府
先代
(創設)
最高法院院長
1939年5月 - 1940年1月
次代
陳伊炯
先代
胡礽泰
司法行政部長
1940年1月 - 3月
次代
(廃止)
中華民国の旗 中華民国
先代
(創設)
中央公務員懲戒委員長
1940年4月 - 1945年4月?
次代
(廃止)