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朴龍喆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴龍チョルから転送)
朴龍喆
各種表記
ハングル 용아
漢字 龍兒
発音:  
日本語読み: りゅうじ
ローマ字転写: Yonga
各種表記(本名)
ハングル 박용철
漢字 朴龍喆
発音: パク・ヨンチョル
日本語読み: ぼくりゅうてつ
ローマ字転写: Bak Yongcheol
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朴 龍喆(ぼく りゅうてつ、パク・ヨンチョル、1904年6月21日 - 1938年5月12日)は朝鮮詩人本貫忠州[1]は龍児。病魔に冒されながらも文芸雑誌の刊行に尽力し、朝鮮の詩文壇に大きな足跡を残した。金永郎と共に全羅南道の二大抒情詩人と称され、人々に親しまれている。

略歴

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1904年6月21日、全羅南道光山郡松汀邑素村里36番地(現・光州広域市光山区[1])に生まれる。父は朴夏駿、母は高光高氏。朴祥の15代目に当たる。三男坊として生まれたが兄等が早くに死んだので長男となった。1916年光州公立普通学校を卒業し、徽文義塾に入学したが、すぐに培材学堂に転学した。朴が15歳のとき、母が腸チフスにかかり病床に就く。そのため、家事を担う者がいなくなり、朴はいやいや14歳になる蔚山金氏の娘、金孝実を貰った。しかし、この娘は新教育を受けてはおらず、朴がいろいろと苦心して教育を受けさせようとしたが、妻の学力は朴の期待に及ばず、この妻との仲はよくなかった。

1922年培材高等普通学校の卒業を数日に控えて退学した朴は、渡日し、東京青山学院中学部の4年次に編入学する。そこで、同じく青山学院に通っていた、金允植と出会う。金とはその後、長く友情を交わし、詩文学派朝鮮語版として他の詩人達を引っ張って行った。

1923年関東大震災が起こる。朴はこのとき、帰省していて被災しなかったが、留学は中断せざるを得なかった。その後、延禧専門学校(現在の延世大学校)に数ヶ月だけ通うが、退学する。妻との仲もよくないまま、家を空けることが多く、米相場に手を出して3,000円をすってしまうこともあった。そのため、両家が示談し、金氏と離婚することになった。

1929年頃、詩の雑誌を発刊するためしばしばソウルを往来し、1930年に妹の鳳子が梨花女子専門学校(現在の梨花女子大学校)に入学すると、西大門区玉川洞に間借りして自炊生活を始めた。同じ年3月、文芸雑誌『詩文学』を創刊する。同人は詩文学派朝鮮語版と呼ばれる鄭寅普卞栄魯金允植鄭芝溶異河潤であった。『詩文学』は3号で廃刊となってしまうが、続いて1931年11月、文芸雑誌『文芸月刊』を創刊する。異河潤と共に編集を務め、金允植、鄭芝鎔、異河潤等のほかにも筆者を多く募って、より大衆的な雑誌にした。しかしながら、この雑誌も1932年3月の4号で中断してしまう。さらに1934年1月に文芸雑誌『文学』を創刊するが、これも3号で終刊となった。この頃、朴は健康をひどく害して故郷に戻って養生することになった。

雑誌発行事業の間、1932年、妹・鳳子の学友であった林貞姫と再婚する。今回は恋愛の末の結婚であったので、二人は幸せであったはずだが、雑誌発刊に尽力するあまり、体を壊し、故郷で養生していたが、結局健康状態はよくならなかった。朴は劇芸術研究会の一員でもあって、養生中にイプセンの「人形の家」を翻訳している。この翻訳が完成すると、その原稿を持って再び上京した。1937年には少し健康を取り戻したのか、渡日している。しかし、1938年には、再び身体が弱り、意思表示も困難になった。大学病院から聖母病院セブランス病院へと転々としたが、衰弱が激しく、1938年5月12日午後5時、自宅にて夭折した。34歳であった。

遺骸は故郷全羅南道の生家の近くに葬られた。1940年、未亡人林貞姫によって『朴龍喆全集』(全2巻)が刊行される。1970年、詩人孫光殷の詩画展を契機として光州公園の詩人の丘に、二基の詩碑が立てられた。一基は朴龍喆、もう一基は金永郎。2人は全羅南道の二大叙情詩人として、現在も人々に親しまれている。

年譜

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脚注

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  1. ^ a b 박용철(朴龍喆)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月20日閲覧。