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李軫鎬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李家軫鎬から転送)
李軫鎬
이진호
貴族院勅選議員時代の李軫鎬
生年月日 (1867-08-02) 1867年8月2日
出生地 漢城府(現大韓民国の旗 韓国 ソウル
没年月日 (1946-09-03) 1946年9月3日(79歳没)
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李軫鎬
各種表記
ハングル 이진호
漢字 李軫鎬
発音: イ・ジノ(イ・ジンホ)
日本語読み: り しんこう
ローマ字 Lee Jin-ho
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李 軫鎬(り しんこう、イ・ジンホ、朝鮮語: 이진호1867年8月2日 - 1946年9月3日[1])は、朝鮮時代末期と大韓帝国軍人日本統治時代の朝鮮政治家貴族院勅選議員。日本名は「李家 軫鎬」(りのいえ しんこう)[2]は「星齋」[1]位階正四位

経歴

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1867年、本籍は京城府本貫全義李氏1893年から1907年までに效力副尉龍驤衛左部将兼陸軍養成所教官、陸軍正尉、陸軍参領、訓練隊第三大隊長、親衛第二大隊長をつとめた。内通により春生門事件を失敗させた人物とも言われる。高宗露館播遷以降は日本に亡命した[1][2]

1908年以降、平安南道観察使、平壌官立高等学校校長を務め、日本統治時代は朝鮮総督府慶尚北道長官、全羅北道長官、学務局長、中枢院参議、中枢院副議長、中枢院顧問を歴任した。1943年10月より貴族院勅選議員を務め、1946年9月3日に死去した[1](議員資格は1947年5月の貴族院廃止時まで与えられていた[2])。所属会派は無所属倶楽部[2]

受賞・栄典

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死後の評価

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脚注

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  1. ^ a b c d e 이진호(李軫鎬)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年6月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e 衆議院, 参議院: “議会制度七十年史. 第1”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. 172 (昭和35-12). 2022年6月21日閲覧。
  3. ^ 신재우 (2008年2月28日). “김서규 등 친일파 7명 재산 41억 국가귀속(종합)” (朝鮮語). 연합뉴스. 2022年6月21日閲覧。