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李英宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
英宗 李天祚
李朝
第6代皇帝
国号 大越
王朝 李朝
在位期間 1138年11月5日 - 1175年8月14日
都城 昇龍(タンロン、現ハノイ
姓・諱 李天祚
廟号 英宗
生年 天彰宝嗣4年(1136年
没年 天感至宝2年7月26日
1175年8月14日
神宗
霊照太后黎氏中国語版
后妃 昭霊皇后武氏
元号 紹明 : 1138年 - 1140年
大定 : 1140年 - 1162年
政隆宝応 : 1163年 - 1174年
天感至宝 : 1174年 - 1175年

李英宗(りえいそう、:Lý Anh Tông、在位:1138年 - 1175年)は、李朝の第6代皇帝。天祚(ティエント、:Thiên Tộ)。

経歴

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第5代皇帝神宗感聖夫人黎氏中国語版(後の霊照太后)の次男で嫡子として生まれ、父の死後わずか3歳で皇帝に即位した[1]。即位から間もない治世2年目の紹明2年(1139年)、当時の中国の王朝であったの朝廷より、交趾郡王の爵位を与えられている[2]

翌年(2月に大定と改元)の内に、占い師の申利中国語版という人物が仁宗の息子を名乗り、800名余りの兵士らを率いて反乱を起こした[3]。申利は同年のうちに『越史略』によれば「平皇」[4]、『大越史記全書』によれば「平王」を称し、妻たちに皇后や夫人、男子たちに王侯の称号を授けるに至った[5]。この反乱は外戚(祖母の杜太后の弟)の杜英武中国語版によって鎮圧され、翌年の10月に申利の一党2000人余りが捕縛された[6]。申利も諒州に逃れたものの捕えられて都に連行され[7]、他の首謀者20名らと共に処刑された[8]。その後、大定2年(1141年)12月から大定3年(1142年)2月までの間に、申利の郎党の罪状は免じられた[9]

当初、英宗は幼かったため政務は全て杜英武に委ねられていた[10]が、杜英武は妻の蘇氏を通して姉の杜太后の後宮への出入りを禁じ、自らは英宗の母の霊照太后と私通し、次第に宮中で傲慢な態度を取るようになった[11]。これに対し『越史略』によれば大定9年(1148年[12]、『大越史記全書』によれば大定11年(1150年)、宮中では反対派らがクーデターを起こし、杜英武は一度は投獄されたものの、当時12歳であった英宗の裁定により杜英武は解放され、後にクーデターの首謀者らの多数が弾圧された[13]。後の大定18年(1157年)に杜英武は死去した[14]が、その次に政権を握った蘇憲誠が内外に渡って善政を敷き、彼の存命期間中は国内は安泰であったとされる[15]

政隆宝応2年(1164年)には南宋孝宗より「安南国王」の爵位を贈られている[16][注釈 1]。この時期は中華は北方におよび西夏、南方に南宋が並立していた時期であり、金と南宋の両王朝とそれぞれ国交を保つ外交努力がなされていたとされる[17]

天感至宝元年(1174年)、皇太子であった李龍昶が後宮の側室と密通したため、英宗は李龍昶を廃し庶人に落として投獄し、代わってその弟の李龍𣉙を後継者に指名した[18]。天感至宝2年(1175年)、英宗は病に倒れ、李龍𣉙に「為人子不孝、安治民乎」との遺訓を残して没した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 宋史』及び『宋会要輯稿』によれば、李天祚(英宗)を安南国王に冊封したのは淳熙元年(1174年)に行われたと記録されている。

出典

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  1. ^ 『越史略』巻下:諱天祚,神宗第二子也。母感聖夫人,姓黎氏。王為人,隆準龍顔,仁慈寛恕。年方三歳,即位於柩前。
  2. ^ 『大越史記全書』巻4:己未紹明二年〈宋紹興九年〉,宋封帝爲交趾郡王。
  3. ^ 『大越史記全書』巻4:卜者申利自謂仁宗子,率其黨與由水路抵太原州,出西農州,道過陸令州,入據上原州、下農州,招納亡命召募土兵,有眾八百餘人,同謀作亂。
  4. ^ 『越史略』巻下:己未紹明三年,翁申利自稱仁宗之子,據上源州以叛,僭號平皇,有衆千餘人。
  5. ^ 『大越史記全書』巻4:辛酉大定二年〈宋紹興十一年〉春正月,申利僭號平王,立其妻妾爲皇后、夫人,子爲王侯,賜其黨與官爵,各有差。
  6. ^ 『大越史記全書』巻4:冬十月,朔,又使英武討陸令州,俘利黨二千餘人。
  7. ^ 『大越史記全書』巻4:利遁于諒州,太傅蘇憲誠擒利送英武,檻歸京師。
  8. ^ 『大越史記全書』巻4:獄成,帝御天慶殿洽判,利與其謀主二十人並斬,餘皆以次論,原其脅從者。群臣上表賀。
  9. ^ 『大越史記全書』巻4:詔免利黨放流罪。
  10. ^ 『大越史記全書』巻4:初,帝幼沖,政無大小,皆委杜英武。
  11. ^ 『大越史記全書』巻4:英武使妻蘇氏出入宮禁事杜太后,以故英武私通黎太后,因此益驕,居朝廷則攘臂厲聲,役官吏則頤指氣,使眾皆側目而莫敢言。
  12. ^ 『越史略』巻下:戊辰大定九年,春二月,獻赤馬生距。秋九月,真臘寇乂安州。王聽太尉杜英武獄,徙英武為昇田宏。
  13. ^ 『大越史記全書』巻4:(前略)等謀收捕英武。(中略)駙馬郎楊嗣明等三十人流遠惡處(後略)。
  14. ^ 『大越史記全書』巻4:秋八月,杜英武死。
  15. ^ ベトナム民族小史 頁63
  16. ^ 『大越史記全書』巻4:宋封帝爲安南國王,改交趾爲安南國。
  17. ^ ベトナム民族小史 頁63
  18. ^ 『大越史記全書』巻4:秋九月,太子龍昶有罪,廢爲庶人囚之。先是龍昶烝于宮妃,帝不忍抵死,故有是命。

参考文献

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  • 『大越史記全書』
  • 『越史略』
  • 松本信広著『ベトナム民族小史』岩波新書、1975年第6刷発行
先代
神宗
李朝皇帝
第6代:1138年 - 1175年
次代
高宗