東岡遊廓
東岡遊廓[1](ひがしおかゆうかく)は奈良県生駒郡郡山町大字東岡町(現・大和郡山市東岡町)にかつて存在した遊廓。正式には東岡町(ひがしおかまち)遊廓といい、大正期には、岡町遊廓とも名乗っていた[2]。
概要
[編集]東岡町は郡山城下町の南部、奈良と大阪を結ぶ奈良街道沿いに立地する。明治政府に公認された遊廓の一つで、市内の洞泉寺遊廓とともに大和郡山市の公認遊廓であった。なお、奈良県の公認遊廓は、奈良市の「木辻」「瓦堂」、大和郡山市の「洞泉寺」、「東岡町」の4つで、奈良四遊廓という[3]。
大正時代に、近畿鉄道の前身である大阪電気軌道(大軌)が現在の橿原線を開通し、郡山停留所(現在の近鉄郡山駅)を開設した。これを機に、近鉄郡山駅に近い東岡町では、金魚養殖・海外輸出で財を成した人らが従来の花街の西側に「岡町新地」を開発し隆盛を迎えた。戦後も赤線(特殊飲食店街)として営業が続けられ、売春防止法施行まで合法的な営業が行われていた。東岡町ではその後も、非合法で売春が続いていたとみられ、平成元年(1989)のフィリピン人女性らへの大がかりな売春強要事件の摘発で、終焉を迎えた[4]。
歴史
[編集]江戸後期から明治まで
[編集]東岡町は、郡山藩の郡山城下町南西に位置する柳町大門に隣接する外町で、奈良から大阪へ至る奈良街道沿いに立地する。ここは郡山城下町の入口でもあるため、近世には旅籠屋が軒を並べ、その中には最盛期17軒の「煮売渡世」の店があった[5]。
幕末維新期から明治初期、奈良街道沿いには「菊屋・坂井・魚平・大みか・米浜など十軒ばかりの店があった」という[6]。また、当時東岡町には芸妓と二枚鑑札の娼妓がおり、奈良県の知識人でもあった水木十五堂(要太郎)は「菊屋の「小米」や坂井の「叶」など芸達者な芸妓がいて、舞さらへなども盛んであった」といっている[7]。
明治32年(1899)、東岡町の貸座敷は4軒・娼妓は5人であった[8]が、芸妓は20人以上居たことがわかっている[9]。しかし明治38年(1905)には、娼妓が0人となってしまい、郡山町(現在の大和郡山市)では娼妓がいるのは洞泉寺遊廓、芸妓がいるのは東岡町といった棲み分けがなされることとなった[10]。このころ、東岡町では「浪花節芸妓」という流行芸妓のグループが結成され「郡山を代表するもの、金魚、御殿桜、浪花節芸妓」と世人に讃えられた[11]。
大正〜昭和初期
[編集]大正3年(1914)の新聞記事には「高等官連の昼帰り」というものがあり[12]、当時の奈良県庁職員の中には近くの奈良市元林院町の芸妓街に行かず、わざわざ東岡町まで足を延ばして遊ぶ者が多かったことがわかる。人気の東岡町芸妓による「浪花節」を聞くためにおそらく通っていたのだろう。
同年、東岡町の屋台骨を揺るがす大きな出来事があった。生駒トンネルの大工事が完了し、現在の近鉄奈良線が開通したのである。大阪の上本町と奈良市が生駒町を経由して直通で結ばれ、路線から外れた郡山町は蚊帳の外に置かれる格好となった。芸妓街として発展した東岡町にとって、新しく開設された現在の生駒駅(大軌生駒停留所)周辺の芸妓街開発は大きな痛手となった。これ以降、生駒芸妓は東岡町芸妓と競合し、大阪からの多くの遊客が生駒へと流れてしまう事態となったためである[2]。
大正中期頃まで、東岡町は「岡町遊廓」と名乗っており、店は5〜6軒で推移していたことが当時の新聞に掲載された広告欄からわかる[13]。
大正10年(1921)4月1日、ようやく大軌畝傍線の一部区間、西大寺-郡山間が開通した。これによって「郡山停留所(現近鉄郡山駅)」が開設され、これを祝う祝賀行事が行われた。当日は、郡山町民総出で三日間飲めや踊れの大騒ぎだったようで、この祝賀行事で花を添えた東岡町の芸妓衆は、花車に乗って町内の目抜き通りを練り歩いたという[14]。
この大軌畝傍線の開通と及び郡山停留所開設により、大正13年以降、郡山停留所東側にある現在の「銀座通り」付近から東岡町までが新地開発されることとなった[15]。発起人は旧郡山藩士の子孫で、金魚養殖を近隣農家に普及活動を続けていた小松直之である[16]。
これによって、それまで芸妓街として発展していた東岡町は、町の西側にあった金魚池や荒地に三階建遊廓建物を建て、娼妓のいる遊廓街として発展することとなった。この様子を、前述の水木十五堂は以下のように記している[7]。
「14年一月清月楼開業翌月には、小松氏の錦水楼開業の運びに至り、今(昭和8年)は妓楼25軒、娼妓280人あり、数に於て洞泉寺木辻を凌駕し新開地気分を発揮して漸次盛況を呈してゐる。」[7]
『全国遊廓案内』の記述
[編集]1930年(昭和5年)に出版された『全国遊廓案内』によると、午前8時から正午までは5円、正午から日没までは7円、日没から12時までは7円、12時から翌朝7時までが6円だったという[1]。上方では娼妓のことを「女郎(おやま)」、「子供衆」と呼んでいた[1]。妓楼は旭楼、今村、竹島、藤近、千歳、大阪楼、都楼、笹の屋楼、壽楼、岡吉楼、ヨカロー、揚喜楼、御多福楼、河卯楼、寶山楼、駒川楼、恵美須、第三清月、錦水楼、清月楼等があったという[1]。
奈良県における公娼制度と税制
[編集]近代における公娼制度は各道府県によって違った方法がとられており、奈良県では、貸座敷は奈良県令「貸座敷営業取締規則」、娼妓は「娼妓取締規則施行細則」などが定められている[17]。これらの取締りは奈良県警察署、東岡町は生駒郡郡山署が管轄している。各公認遊廓地では同業者組合が設けられ、それぞれ細かな規則が定められている[17]。奈良県では娼妓稼契約は年期制がとられ、公認遊廓地域に集めた住込制(居稼ぎ)であった[18]。娼妓は大正15年(1926)7月31日までは、所属する廓から外に出ることは許されなかった[17]。また、上方では娼妓の稼ぎ高を「玉代」とは言わずに「花代」という。昭和14年(1939)の国税「遊興飲食税」が課税されるまで、花代には奢侈税として一定の金額以上に遊興税がかかっていた。これは時期によって異なるが花代の4%〜8%であった[3]。その他、貸座敷及び娼妓には「賦金」という税金がかかる。これは明治初期から課せられている地方税で、貸座敷には、昭和6年(1931)の段階で1軒につき月額2円70銭〜(30畳を基準に1畳超えるごとに加算)が課税され、娼妓には1人月額3円が課税されていた[19]。同年の奈良県における娼妓数が680人であった[20]ことからも、公認遊廓地の税収が如何に大きなものであったかがわかる。
遺構等
[編集]東岡町遊廓及び、洞泉寺遊廓地域の遊廓建造物はここ数年解体が進んでおり、2024年(令和6年)には東岡町に残っていた象徴的な木造3階建ての建物につき倒壊の危険性があることから空き家対策特別措置法に基づく特定空き家に認定され、2024年10月15日より行政代執行で取り壊されることになった[21]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『全国遊廓案内』353 - 354頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年6月2日閲覧。
- ^ a b “奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓② 浪花節芸妓の流行”. 又春廓・奴. 2024年9月25日閲覧。
- ^ a b 西山真由美・山川均 (2024-03-31). “近代奈良の遊廓と性売買-新聞報道にみるその諸相-”. 女性史学 (女性史総合研究会) (33).
- ^ “解体予定の旧遊郭、昭和初期の建築か 奈良・大和郡山市”. yahooニュース. 2025年9月25日閲覧。
- ^ 『隠し売女御咎の記』『奈良奉行所与力橋本家文書』京都大学付属図書館所蔵影写本。
- ^ 「郡山遊廓の由来」『郡山週報』1949年10月9日、プランゲ文庫。
- ^ a b c 南都馬角斎 (1933). “大和の遊廓”. 郷土研究上方 (上方郷土研究会) (28).
- ^ “奈良県統計書明治32年警察3”. 奈良県. 2025年9月25日閲覧。
- ^ “大和郡山市東岡町遊廓について① 幕末〜明治編”. 又春廓・奴. 2024年9月25日閲覧。
- ^ “奈良県統計書明治38年警察”. 奈良県. 2024年9月25日閲覧。
- ^ 『郡山町史』奈良県郡山町、1953年2月。
- ^ 「高等官連の昼帰り」『奈良新聞』1914年6月16日。
- ^ 「謹賀新年 岡町遊廓」『奈良新聞』1922年1月1日。
- ^ 『近畿日本鉄道100年のあゆみ : 1910~2010』近畿日本鉄道、2010年12月。
- ^ 『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 大和郡山』国書刊行会、1980年。
- ^ 『『大和郡山人物志』』サンデー郡山社、1955年。
- ^ a b c 『奈良県報大正15年』奈良県、1926年。
- ^ 『公娼と私娼』内務省警保局、1931年。
- ^ 『現行奈良県法例類纂 : 加除自在 第1綴』奈良県 編、1931年。
- ^ “奈良県統計年鑑 昭和6年(警察3)”. 奈良県. 2024年10月6日閲覧。
- ^ “明治期の遊郭の象徴だった建物解体へ 「特定空き家」に認定 奈良”. 毎日新聞. (2024年7月30日) 2024年7月31日閲覧。
参考文献
[編集]- 西山真由美・山川均2024「近代奈良の遊廓と性売買-新聞報道にみるその諸相-」女性史学(33)。
- 南都馬角斎1933「大和の遊廓」『郷土研究上方』上方郷土研究会(28)。
- 『全国遊廓案内』日本遊覧社、1930年。