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松前公広

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松前 公広
時代 江戸時代前期
生誕 慶長3年(1598年
死没 寛永18年7月8日1641年8月14日
改名 竹松丸(幼名)、茂広(初名)、公広
別名 武広、甚五郎
戒名 公広院殿渓雲宗愚大居士
墓所 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺
官位 従五位下志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前盛広下国直季の娘
正室大炊御門資賢の娘
継室蠣崎守広の娘・藤子
兼広松前広維室、氏広泰広広諶幸広蠣崎清広室、新井田成政室、女子、蠣崎広林
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松前 公広(まつまえ きんひろ、旧字体松󠄁前󠄁 公󠄁廣)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第2代藩主官位従五位下志摩守

生涯

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慶長3年(1598年)、初代主・松前慶広の長男・松前盛広の長男として松前大館にて誕生。父・盛広が慶長13年(1608年)に早世したため、慶広の世子となる。慶長19年(1614年)に従五位下、志摩守に叙位・任官する。元和2年(1616年)、祖父・慶広が死去したため、元和3年(1617年)に家督を継いで2代藩主となった。

元和6年(1620年)、福山館の城下町を整備する。寛永10年(1633年)の幕府巡見使を契機に、寛永12年(1635年)、村上掃部左衛門に領内の地図を作らせた。商場を知行として家臣に分与する商場知行により家臣団を確立し、財政においては金山奉行を設置して砂金の採取にあたらせ、初期の藩政を助けた。公広はさらなる藩の政治経済の安定に従事したが、寛永14年(1637年)、火事のために福山館が焼失したうえに自身も火傷し、その政策は挫折してしまった。寛永16年(1639年)には、幕府のキリシタン取締りの命により、キリシタン106名を処刑した。

寛永18年(1641年)7月8日に死去。享年44。辞世は「来し道も 帰る道にも ただひとり のこる姿は 草の葉の露」。

家督は次男・氏広が継いだ。

人物

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  • 沢庵宗彭から仏道を、小幡景憲から軍学を学んだという。
  • 文化人で、諸芸にも通じていたとされる。松前藩の藩政は、慶広と公広の時代に確立している。

系譜

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父母

正室、継室

側室

  • 蠣崎氏

子女

参考文献

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  • 藤野保・木村礎・村上直編 『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 雄山閣 1988年 ISBN 4-639-10033-7