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松浦久信 (伊勢国井生城主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松浦秀任から転送)
 
松浦秀任 / 久信
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年9月13日1600年10月19日
改名 久信→秀任
別名 茂吉、久信、通称:安兵衛、伊予守
官位 従五位下伊予守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 和泉松浦氏(寺田氏)
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松浦 久信(まつら ひさのぶ)は、安土桃山時代武将大名伊勢井生城主。豊臣秀吉の鉄砲大将。

通称は安兵衛。秀吉の偏諱を受けて秀任(ひでとう)を名乗った。官途は従五位下・伊予守で、松浦伊予守の称でも知られる。

略歴

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和泉国の人。和泉松浦氏岸和田城松浦肥前守(光)の家臣の寺田又右衛門(生家)安太夫(松浦宗清)兄弟[1]とは、従弟の関係であるという[2]

寺田兄弟は織田信長に仕えた後に、又右衛門は豊臣秀長に仕え、安太夫(宗清)と安兵衛(秀任)は秀吉に馬廻として仕えた。

文禄元年(1592年)、文禄の役では馬廻詰衆として肥前名護屋城に駐屯した[3][4]。文禄2年(1593年)閏9月12日、『駒井日記』によれば、1,000石加増された[5][4]

文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担[4]。『松浦古事記』によれば、同年、大坂城西の丸での演目『皇帝』が演じられた際に、悪鬼役を演じた[6]

慶長3年(1598年)頃、伊勢国井生いうにて1万石を拝領し、合計1万1千石を知行[4]。伊予守に任じられ従五位下に叙される。同年8月、秀吉が没すると、遺物国宗の刀を受領した[4]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、前哨戦の伏見城の戦い安濃津城の戦いに参加。伊勢から近江路に向かい、立花宗茂らと大津城の戦いに加わって奮戦したが、9月13日、銃弾を受けて戦死した[4][7]。戦後、宗茂はその勇気に感心し、秀任の子を召し出して家臣としたという[2]

脚注

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  1. ^ 和泉国和泉郡寺田村に興った寺田氏の一族。和泉水軍の将。
  2. ^ a b 国史研究会 1914, p. 225.
  3. ^ 阿部 1990, p. 722.
  4. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 236.
  5. ^ 史料綜覧11編913冊34頁。
  6. ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、185頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214367/124 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 大津城攻めで討死したことは「大津籠城合戦記」に「寄手ハ松浦伊予守ヲ初、宗徒ノ兵数多討レ」、「筑紫古文書」にも「大坂御旗本衆、増田右衛門尉人数・片桐市正人数・片桐主膳正・松浦伊予守討死」とあり、「廃絶録」なども同様である。

参考文献

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  • 阿部猛; 西村圭子 編「松浦秀任」『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、722頁。ISBN 4404017529 
  • 桑田忠親「松浦秀任」『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、129頁。 ASIN B000J9GTRU
  • 国史研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦秀任」『古今武家盛衰記一』国史研究会〈国史叢書〉、1914年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441715/124 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 高柳光寿; 松平年一「松浦秀任」『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、236-237頁。