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柳惲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳ウンから転送)

柳 惲(りゅう うん、465年 - 517年)は、南朝宋からにかけての官僚文人は文暢。本貫河東郡解県。兄は柳悦・柳惔。弟は柳憕・柳忱

経歴

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柳世隆柳元景の弟の柳叔宗の子)の三男として生まれた。幼くして嵆元栄や羊蓋に学び、弾琴を極めた。また学問を好み、尺牘を得意とした。早くから貴公子の令名があり、初めて詠んだ詩である「搗衣詩」は王融の賞賛を受けた。謝瀹の隣に住んで、かれと友情を結んだ。

の竟陵王蕭子良に召し出されて、その下で法曹行参軍をつとめた。諸官を歴任して太子洗馬となった。永明9年(491年)、父が死去したため、官を去って喪に服した。服喪が終わると、鄱陽王蕭鏘の下で相を代行した。後に建康に召還されて、驃騎従事中郎に任じられた。

中興元年(501年)、蕭衍が東征してくると、柳惲は石頭城で蕭衍と面会し、冠軍将軍・征東府司馬となった。建康制圧にあたって、図書や公文書を先んじて保護するよう蕭衍に提案して、聞き入れられた。蕭穎冑が江陵で死去すると、柳惲は蕭衍の命を受けて西上し、和帝を迎えた。給事黄門侍郎に任じられ、歩兵校尉を兼ね、相国右司馬に転じた。

天監元年(502年)、梁が建国されると、柳惲は長兼侍中に任じられ、沈約らとともに新律の制定にあたった。武帝(蕭衍)とともに景陽楼に登って詩を賦すと、その詩は帝の賞賛を受けた。また柳惲は囲碁も得意とし、武帝の命を受けて棋譜を定め、その優劣を公表した。天監2年(503年)、呉興郡太守として出向した。天監6年(507年)、建康に召還されて散騎常侍となり、左民尚書に転じた。天監8年(509年)、持節・都督広交桂越四州諸軍事・仁武将軍・平越中郎将・広州刺史に任じられた。

建康に召還されて秘書監となり、左軍将軍を兼ねた。再び呉興郡太守となって6年、その統治は清廉で穏健なものであったことから、民衆と官吏になつかれ、離任のときには父老1000人あまりが引き留めるべく請願し、離任は先延ばしにされた。天監16年(517年)、死去した。享年は53。侍中・中護軍の位を追贈された。

末子の柳偃(柳敬言の父)は、字を彦游といい、長城公主を妻に迎え、太子洗馬や廬陵郡鄱陽郡の内史をつとめた。

伝記資料

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