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柴田勝豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柴田勝豊
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正11年4月16日[1]1583年6月6日
別名 通称:伊介、伊賀守[1]
墓所 東福寺京都府京都市東山区[異説あり]
主君 柴田勝家羽柴秀吉
氏族 吉田氏→柴田氏
父母 父:吉田次兵衛または渋川八右衛門
母:柴田勝家の姉、養父:柴田勝家
兄弟 勝敏勝政勝豊佐久間勝之[注釈 1]養女高城胤則室)
稲葉貞通の娘[1][2]
特記
事項
兄弟はすべて養子養女で、実家に血縁の兄弟がいたかどうかは不明
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柴田 勝豊(しばた かつとよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田家宿老柴田勝家の甥でその養子となり、越前丸岡城[3]のちに近江長浜城主を務めたが、勝家との不和から離反して羽柴秀吉に属した[3][1]

略歴

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生年不詳。柴田勝家の姉の子で[3]、実子がいなかった勝家の養子となった[注釈 2]。実父は勝家老臣の吉田次兵衛[4]とも渋川八右衛門(一説に吉田次兵衛の子)ともいう[2]佐久間盛政柴田勝政佐久間勝之兄弟は従兄弟にあたる。

天正元年(1573年)頃から勝家に従っており、洛中での活動の褒美で銀515匁を受け取った[5]

天正4年(1576年)、越前移封に伴い、勝家は居城北ノ庄城の支城である丸岡城の城主に勝豊を置いた[5]。『武家事紀』によれば4万5,000石を領したという[6][5]

福井県福井市の西光寺にある柴田勝家の墓には、お市の方、勝家の一子作次郎とともに、勝豊も合祀されている。

天正9年(1581年)、織田信長京都御馬揃えには、勝家は勝政と勝豊を連れて上洛して、二人を連れて信長を訪礼している[5]

天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、清洲会議で勝家はライバルの羽柴秀吉の旧領であった北近江を獲得して、長浜城に勝豊を入れ置いた[5]。領国経営として、同年8月24日、湖北三郡(坂田郡浅井郡伊香郡)に対して徳政令を発布[7]、家臣・大澤次郎左衛門尉に阿閉貞大[注釈 3]の旧領を与えたり、竹生島への寄進などをしている[5]。ところが、勝敏(権六)は一説には勝家の実子といい、実子の誕生により養子の勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになったこと[6]、さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに不満があった[5]。同年12月9日、羽柴秀吉が大軍をもって城を囲むと、勝豊はさしたる抵抗もなく秀吉に降り、長浜城を羽柴方に明け渡した[5][8]。すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い当時も勝豊は病気療養で京都にいて参戦できなかったが[9]、家臣山路正国[注釈 4]と大鐘藤八[注釈 5]を代理として養父勝家との戦いに参戦させた。この勝家への明白な裏切りは『天正記』にあるように遺恨が両者の間にあった可能性がある[10]

療養中、勝豊は丹羽長秀の使いの見舞いを受けたり、秀吉が遣わした医者・古瀬法眼や曲直瀬道三の診察を受けたりしていたが[11]、賤ヶ岳の戦いの直前、天正11年(1583年)4月16日に死去した[1]。京都東山の東福寺(臨済宗)で没したとされる[9]が、中島孝治は京都本法寺(日蓮宗)が勝豊の療養地であるから菩提寺は本法寺の可能性が高いとする別説を述べている[12]

家臣

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脚注

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注釈

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  1. ^ 勝家の養子だが、後に佐久間姓に復したため諸系図に名前がない。
  2. ^ 『寛政譜』では勝家との血縁関係に関する記述はなく「某氏の男」とのみある[1]。諸系図には勝豊の母についてしるしたものはなく、同じく勝家姉妹の佐久間盛政の母とは扱いが異なる。
  3. ^ 明智方の武将で刑死。
  4. ^ もともと柴田勝家の家臣であったので、佐久間盛政に勧誘されて勝家に内応しようとしたが、勝豊の死の3日前に露見して、正国が預けていた人質は磔刑にされた。正国本人は柴田方で戦い、4月21日に戦死した。
  5. ^ 「大鐘」は「大金」ともする。

出典

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  1. ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 1104.
  2. ^ a b 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、496頁。ISBN 9784797105551 
  3. ^ a b c 柴田勝豊」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E8%B1%8Aコトバンクより2022年4月22日閲覧 
  4. ^ 『改訂坂田郡志・『近江長浜町史』
  5. ^ a b c d e f g h 谷口 1995, p. 204.
  6. ^ a b 山鹿素行『国立国会図書館デジタルコレクション 『武家事紀』巻第十三』山鹿素行先生全集刊行会、1915年、450-451頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946584/246 国立国会図書館デジタルコレクション2013年10月30日閲覧 
  7. ^ 福井県史年表 1581~1600年”. 2021年8月31日閲覧。
  8. ^ 太田浩司 著「賤ヶ岳の戦い」、杉山博; 渡辺武; 二木謙一 ほか 編『豊臣秀吉事典』新人物往来社、2007年、254頁。ISBN 9784404034687 
  9. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 120.
  10. ^ 谷口 1995, p. 204-205.
  11. ^ 谷口 1995, p. 205.
  12. ^ 中島孝治「柴田家離反に動いた実相を追う」(『歴史群像シリーズ』15号、1989年)[要ページ番号]
  13. ^ 山路正国」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E6%AD%A3%E5%9B%BDコトバンクより2021年8月31日閲覧 
  14. ^ 亀田高綱」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E7%94%B0%E9%AB%98%E7%B6%B1コトバンクより2021年8月31日閲覧 

参考文献

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