北条貞国
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(桜田貞国から転送)
時代 | 鎌倉時代末期 |
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生誕 | 弘安10年(1287年)?[1] |
死没 |
元弘3年/正慶2年5月9日(1333年6月21日)[2] または 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)[3] |
別名 | 桜田貞国、桜田治部大輔、瓜連備前入道、入道浄心 |
官位 | 治部大輔 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 守邦親王 |
氏族 | 北条氏(桜田流) |
父母 | 父:北条時厳、母:不詳 |
兄弟 | 頼覚、師頼、兼貞、貞国、篤貞、貞源、綱栄 、定宗 |
妻 | 不詳 |
子 | 時光、十郎 |
北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。
生涯
[編集]弘安10年(1287年)の生まれとされる[1]。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる[注釈 1]。その後の貞時・高時政権期の活動は不明である。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった[6][7]が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れた。大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った[6]後、同月22日に北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した(東勝寺合戦)[3]。
しかし、以上の内容は『太平記』に見られるものであり、実際の史料ではそれより前の5月9日に、六波羅探題北方の北条仲時らと共に自害したとされる[2]。いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『近江国番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』に所収)に記載の没年齢(享年数え年47)より逆算。
- ^ a b 『近江国番場宿蓮華寺過去帳』に見られる自害者のリストの中に、「櫻田治部大輔入道浄心 四十七歳」との記載がある。
- ^ a b 『太平記』巻第10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」に見られる自害者の中に、「桜田治部太輔貞国」が含まれている。
- ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。
- ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四合併号、再興中世前期勉強会、2004年、21頁。
- ^ a b 峰岸 2005, p. 57.
- ^ 『太平記』巻第10 「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相模入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。」とある。
参考文献
[編集]- 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年5月10日。ISBN 4642052321。