梅沢孫太郎
梅沢 孫太郎(うめざわ まごたろう、文化14年1月9日〈1817年2月24日〉 - 明治14年〈1881年〉5月20日)は、幕末期の水戸藩士、一橋徳川家家臣。徳川慶喜の側近。本姓は国友。諱は亮、のち守義。
生涯
[編集]水戸藩士時代
[編集]文化14年(1817年)正月9日、水戸藩士国友尚之(吉兵衛)の三男として誕生した。のちに先代の梅沢孫太郎の養子となる[1]。
水戸藩士時代には、御従目付から大納戸奉行にまで昇進した。また当初は強い尊王攘夷派であった。
文久2年(1862年)、将軍後見職となった一橋慶喜に従い上京し、一橋家雇い、用人心得を経た。文久3年(1863年)、同郷の原市之進らとともに慶喜の側近として幕政を担う。
慶喜の側近として
[編集]元治元年(1864年)、慶喜の側用人であった平岡円四郎が暗殺される。同年慶喜が禁裏御守衛総督に就くと、孫太郎は正式に一橋家の家臣となる。慶応元年(1865年)の兵庫開港要求事件が尊王攘夷派から反感を買い、慶喜の側近らは奸臣と見なされた。慶応2年(1866年)8月20日、禄高百俵の両番格奥詰・目付に就任。12月2日には布衣を許された[2]。同年、嫡男の梅沢信貞が水戸藩の内紛[3]鎮圧に失敗した宍戸藩主松平頼徳に従っていた[4]ことを水戸諸生派に恨まれ、のちに捕縛・吉田原で打首の憂き目にあっている[5]。慶応3年(1867年)念入りな護衛の中、原市之進が暗殺される[6]。孫太郎は老中板倉勝静らと難を逃れた。その後、慶喜が宿所を二条城へ移すと、孫太郎が留守居役をつとめる。このころ、側用人格大目付(応対役[7])に就任する[8]。慶応4年1月5日(1868年1月29日)、朝廷の命を受けた議定・徳川慶勝に城を引き渡す。戊辰戦争の際は直接関与しなかったものの、高橋泥舟と共に須永伝蔵を使って仙台藩・二本松藩などへ謀略をはかろうとしていたが、未遂に終わっている。
なお、孫太郎の三男・梅沢敏[9]が人見勝太郎率いる遊撃隊に従っており、庄内藩領の酒田で降伏している[10]。
維新後
[編集]明治2年(1869年)10月、謹慎していた慶喜が静岡藩に移ると、これに従った。紺屋町の元代官屋敷[11]へ移って、家扶[12]として仕えた。明治3年(1870年)静岡藩主・徳川家達に仕え、藩の重鎮・大久保一翁と共に側用人を務めた。しかし慶喜への忠勤も忘れず、慶喜の狩猟用鉄砲の斡旋、指南をしていた。
- 明治7年(1874年)7月2日、静寛院宮通行[14]の際、使いとして孫太郎が遣わされた。
- 明治8年(1875年)3月26日、慶喜の奥方の清水湊への随行に新村猛雄[15]と共に従う。
- 明治9年(1876年)6月30日、慶喜が安西方面へ鉄砲打ちに出掛けたとき孫太郎は四男・梅沢覚[16]と同行した。
- 同年10月4日にも清水湊へ奥方に随行。
- 明治10年(1877年)4月7日、慶喜の実母・吉子女王の来静以来、久能山・浅間神社参詣などへ慶喜の側室(新村信・中根幸)に随行している。
- 明治14年(1881年)に死去。享年65。長源院[17](沓谷霊園)に葬られる[18]。情に厚い人物だったという。
梅沢孫太郎を演じた人物
[編集]脚注
[編集]- ^ 国友家には二男の直が養子に入っている。
- ^ 『旗本人名事典』。
- ^ 徳川斉昭没後の水戸藩主徳川慶篤は統制力の弱さから、家中が揺れていた。
- ^ 鎮圧失敗後、城から放逐されていた。
- ^ 『水戸藩死事録』『覚書幕末の水戸藩』
- ^ 原・琳瑞が師匠の山岡鉄舟・高橋泥舟らに接触することを嫌った・兵庫開港を押し進めたなどの理由から、同じく幕臣の鈴木豊次郎・依田雄太郎らが刺客となった。
- ^ 慶喜や藩主への外来者の面接などを取り仕切る役。
- ^ 「駿蕃役人名鑑」
- ^ 梅沢守信(鉄三郎)とも。降伏後、人見勝太郎と共に鹿児島に留学する。のちに安部郡長、静岡県議会議員を務め、大正10年(1921年)9月22日に63歳で没した。
- ^ 一説に北海道の函館で降伏したとも。
- ^ 現在の浮月楼
- ^ 身分の高い人物の家務・会計に携わった者。
- ^ 静岡徳川家家扶の記録。慶喜の日常行動について、静岡藩が廃藩置県で消滅した明治5年(1872年)正月からのことを記している重要資料。松戸市戸定歴史館所蔵。
- ^ 「静寛院宮通行、梅沢氏御使」とある。
- ^ 家扶。慶喜の側室・新村信や『広辞苑』編者・新村出の養父。
- ^ 慶喜の二等家従。東草深2丁目31に屋敷(272坪という)を構えた。孫の松枝は野球審判の国友正一に嫁ぐ。
- ^ 静岡県葵区沓谷1丁目
- ^ 子・敏も同院に眠る。