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楠本海山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楠本正翼から転送)

楠本 海山(くすもと かいざん、1873年明治6年)3月2日 - 1921年大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎[1]

生涯

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1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた[1]。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた[1]。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた[1]

1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島佐世保市)に移ったため、これに従った[1]。1883年(明治16年)2月、父と叔父碩水の開いた鳳鳴書院に入学したが、父は3月に死去し、以後は碩水に育てられた[1]

1895年(明治28年)秋、京都に上り、途中広島に吉村彰、大阪に吉田英厚を訪れた[1]。1898年(明治31年)春、伊勢神宮を参詣した後、桑名秋山断に入門し、碩水が編纂中の『崎門学脈系譜』『日本道学淵源録』の資料収集に当たった[1]。桑名に20日間滞在後、名古屋で永井石村、東京舞田養浩内田遠湖岡彪村等に会い、帰郷後、『日本道学淵源録』編纂を手伝った[1]。1903年(明治36年)11月、『端山先生遺書』を出版した。

1905年(明治38年)、東彼杵郡崎針尾村長に選ばれたが、名誉職に過ぎなかったといい、1907年(明治40年)4月、病気のため辞職した[1]。1919年(大正8年)10月、碩水の口述を編録して『聖学要領』を出版した。1921年(大正10年)2月5日、針尾の自宅で死去した[1]

著作

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長男正継の次男、楠本韶の家に『鳶魚斎詩文』が伝わっており、また長崎県立長崎図書館楠本文庫に書簡、草稿類が蔵められている[1]

  • 『罷斎先生批答 孟子疑目』1899年(明治32年)9月
  • 『罷斎先生批答 中庸疑目』1900年(明治33年)3月
  • 『罷斎先生批答 大学疑目』1900年(明治33年)9月
  • 『罷斎先生批答 論語疑目』1901年(明治34年)4月 - 1903年(明治36年)2月
  • 『罷斎先生批答』1898年(明治31年)7月 - 9月、1904年(明治37年)2月 - 9月
  • 『詩草稿』
  • 『詩稿』
  • 『文稿』1908年(明治41年)7月
  • 『遜斎漫筆』1905年(明治38年)
  • 『遜斎漫筆抄』
  • 『日記』1892年(明治25年)閏6月 - 1893年(明治26年)5月
  • 『東遊日暦』1895年(明治28年)11月 - 12月
  • 『偶鈔』1905年(明治38年) -
  • 『楠本正翼草稿並二零紙集』

この他、国士舘大学図書館楠本文庫に手抄本等がある[1]

親族

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  • 父:楠本端山
  • 叔父:楠本碩水
  • 母:玖瑪 - 荘司氏。端山側室[1]
  • 妻:坂本氏 - 1894年(明治27年)8月結婚[1]
  • 長男:楠本正継
  • 次男:楠本正顕 - 1909年(明治42年)11月24日生[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 柴田篤「楠本海山覚書 ―ある崎門学者の生涯と著述―」『香椎潟』第49号、福岡女子大学、2003年