正流斎南窓
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(正流斎南窓 (初代)から転送)
正流斎 南窓(しょうりゅうさい なんそう)は、講談(講釈師)の名跡。田辺南鶴を祖とする田辺派の流れを組む柴田派の祖の名前。
初代
[編集]本名:柴山(または芝山)山二郎(または腎助常晴)、明和7(1770年) - 弘和3(1846年)4月15日。房州冨浦村生まれ。
房州冨浦村南無谷の名家の3男で18歳の時に江戸に出て初代または2代目田辺南鶴門下となる。いつ頃正流斎南窓は不明。
2代目
[編集]初代柴田南玉が名乗ったと言われる。
3代目
[編集]本名:松本庄三郎、生年不詳 - 明治24(1891年)頃。
初代南玉(後の2代目南窓)の門下。前名など不明。首を振りながらの高座だったために「首振りの南窓」とあだ名された。1887年には講談組合を脱退し大道芸の辻講釈に転じ此方賀気楽(このほうがきらく)と改名。その後親玉を名乗った。
4代目
[編集]本名:松本鉄之助、生没年不詳。
3代目の実子。はじめ南海と言い、後に桃川燕林門下で燕飛と言った。1892年7月に正流斎南窓を襲名した。通称本名から「鉄南窓」という。
5代目
[編集]本名:高野藤八、文久1(1861年) - 大正12(1923年)6月21日。江戸神田生まれ。
幼少期から辻講釈で松柳亭太麗と称し23歳で宝集亭(後のとんぼ軒)の席亭でもあった辻講釈の蜻蛉切平八の婿養子になる。後に初代柴田南玉(後の初代柴田馨)の門下で鶴窓を経て正流斎南窓を襲名した。
後に養父の寄席の経営を引き継いだが1923年にその寄席の下足番に殺害された。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本芸能人名事典