婁昭君
婁 昭君(ろう しょうくん、501年 - 562年)は、東魏の権臣高歓の妻。北斉が建てられると、皇太后に立てられた。諡号は武明皇后。
経歴
[編集]婁昭君は鮮卑の婁内干の娘として生まれた。婁昭君の属する婁氏のルーツについて、『魏書』官氏志は「匹婁氏が後に婁氏となった」とする[1]。北朝における胡姓研究の権威である姚薇元は、『魏書』顕祖紀を引いて470年(皇興4年)に匹婁抜累らが吐谷渾の拾寅に従い、北魏の征西将軍長孫観に曼頭山で敗れて降った[2]事実を見出し、匹婁氏は吐谷渾の部落のひとつに属していたとみなしている[3]。婁昭君は成長すると、城上執役にあった高歓を見初めて、「これが真にわが夫なり」といい、私財を幾度か使って招いたため、父母もやむをえず婚姻を許した。高歓が豪傑たちと交友し、ひそかに策謀を練るにあたって、婁昭君はいつも参加していた。高歓が渤海王となると、婁昭君は渤海王妃となった。
婁昭君は明晰で決断のはっきりした人物であった。また倹約を尊び、内外の往来にあたっても侍従は10人を越えなかった。高歓が西征に出ていたとき、婁昭君が夜半に男女の双子を産み、危篤に陥った。側近たちは高歓に危急を知らせようとしたが、婁昭君は「王は大兵を統べておられ、どうして私のために軽々しく軍幕を離れることができましょう。死生は運命です。来たところで何ができましょう」と言って止めた。高歓は後にこのことを聞いて、感嘆した[4][5]。537年(天平4年)、沙苑の戦いで高歓が敗れると、侯景が精鋭の騎兵2万があれば失地を恢復できると述べた。高歓は喜んで婁昭君にそのことを相談すると、婁昭君は「もしその言葉の通りにすれば、帰還する道理がなく、あたら侯景を失うこととなりましょう。なんの利益もありません」と言って止めた[6][7]。高歓は柔然の可汗阿那瓌の娘をめとりたいと考えていたが、決断を下していなかった。婁昭君は「国家の大計は逡巡してはいけません」といった。柔然の公主(蠕蠕公主)がやってくると、婁昭君は自ら正妻の座を降りて、公主を高歓の正妻に立てさせた。高歓はこのことで婁昭君に拝謝した[8]。
婁昭君は同腹異腹にかかわらず高歓の諸子をいつくしみ、自ら機織りして諸子に袍衣を与えた[9]。また戎服を手縫いして、将軍や側近たちに与えた。弟の婁昭は功績を挙げて栄達したが、その他の親族には爵位を請求したことがなかった。婁昭君はいつも人材を適材適所に用いて、公私混同することのないように諫めていた。547年(武定5年)、高澄が渤海王位を嗣ぐと、婁昭君は太妃に進んだ。高洋(文宣帝)が東魏から帝位の禅譲を受けようとすると、婁昭君は固く反対した。
550年(天保元年)、北斉が建国されると、婁昭君は皇太后に立てられ、宣訓宮と称された。559年(天保10年)、高殷(廃帝)が即位すると太皇太后となった。尚書令の楊愔らが文宣帝の遺詔を受けて輔政にあたり、宗室の諸王に憎まれた。婁昭君は常山王高演(孝昭帝)らとはかって楊愔を殺害し、廃立の令を下した。560年(皇建元年)8月、高演が即位すると、再び皇太后となった[10]。561年(皇建2年)11月、高演が死去すると、長広王高湛(武成帝)を立てた[11]。562年(太寧2年)春、病に伏せると、巫媼の言を用いて石氏に改姓した。4月辛丑、鄴の北宮で死去した。享年62であった。5月甲申、義平陵に合葬された。
婁昭君の死の直前、「九龍の母が死して孝をなさず」という童謡が世間で歌われたとされる。婁昭君が死去したとき、武成帝は喪服を着けず緋袍のままであり、まもなく三台に登り酒を置いて音楽を鳴らさせた。武成帝の娘が白袍を進めたところ、武成帝は怒って白袍を台の下に投げ落とした。和士開が音楽を止めるよう上奏したが、武成帝は怒って彼を鞭打った[12][13][14]。
子女
[編集]男子
[編集]女子
[編集]脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』中華書局、1962年。ISBN 978-7-101-02829-4。