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毛利元景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利元景
時代 安土桃山時代-江戸時代初期
生誕 天正3年(1575年
死没 寛永8年9月28日1631年10月23日
改名 繁沢元景→毛利元景
別名 少輔三郎、左近允、勝九郎(通称
墓所 大寧寺山口県長門市深川)
官位 飛騨守、宮内少輔、志摩守
主君 毛利輝元毛利秀就
長州藩
氏族 仁保氏→繁沢家→阿川毛利家
父母 父:毛利元氏、母:仁保隆在の娘
兄弟 長山御たや三浦元忠正室)、元景
女(宮庄伊賀守室)、繁沢元貞
女(草刈就継室)、繁沢百合之助
木原就重、女(飯田就重室)、
女(内藤就正室)、繁沢就真
女(井原元栄室)、女(早世)
小早川秀包の次女
虎徳丸就方、女(早世)、就貞元棟
繁沢元清春直、女(児玉元征室)、
赤川就直吉川正俊繁沢就景
赤木就武三浦就正毛利就嘉、女(早世)
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毛利 元景(もうり もとかげ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。長州藩一門家老である阿川毛利家の2代目当主。父は毛利元氏(繁沢元氏)。正室は小早川秀包の娘。子は毛利就方就貞春直赤木就武児玉元征室。

生涯

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天正3年(1575年)、仁保元棟(後の毛利元氏)の長男として生まれる。天正15年(1587年)、父の元氏が「繁沢」の苗字を名乗ったため、繁沢元景と名乗る。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは毛利秀元の陣に加わり、安濃津城の戦いや関ヶ原戦い本戦に参加した。関ヶ原の戦いでの西軍の敗北によって毛利氏が長門国周防国2か国に減封されると、元景も周防国へと移る。

慶長18年(1613年)に「毛利」の苗字を名乗ることを許され、後に毛利元景と名乗った。しかし、慶長20年(1615年4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「繁澤志摩守元景」と署名している[1]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には毛利秀就に従って出陣した。大坂冬の陣では徳川家康から毛利家に摂津江口に堤を築くよう命が下り、その普請の監督にあたり、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参陣した。寛永2年(1625年)、父の隠居により家督を相続する。同年、玖珂郡椙杜から豊浦郡阿川に知行替えとなる。以後、代々阿川領主・長州藩一門家老を務めた。

元和5年(1619年)に安芸国広島藩福島正則が減転封されると、幕府から広島城の受け取りを命じられた秀就は周防国岩国まで出陣し、吉川広正が先陣、元景が相備となって共に岩国へ赴いた。

寛永8年(1631年9月28日駿河国江尻において死去。享年57。家督は嫡男の就方が相続した。墓所は山口県長門市深川の大寧寺

系譜

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脚注

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  1. ^ 『毛利家文書』第1038号。この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続繁澤左近入道立節(繁沢元氏)毛利甲斐守秀元毛利兵庫頭元宣吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶阿曽沼左兵衛頭元随吉川蔵人広家、繁澤志摩守元景、毛利伊賀守元鎮が並んでいる。

参考文献

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  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 萩藩閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション