氏家氏
氏家氏(宇都宮氏流)
[編集]歴史上著名な氏家氏には、氏家直元(卜全)を輩出した藤原北家宇都宮氏流の氏家氏がいる。
起源
[編集]宇都宮朝綱の子の公頼が下野国の芳賀郡氏家郷に土着して本貫とし氏家姓を名乗ったのが始まりといわれる。しかし、紀氏を出自とする氏家公幹(長元元年(1028年)生 - 永長元年(1096年)1月11日没)が創始した氏家氏を公頼が継いだとする説もある。『美濃国諸旧記』では「氏家の先祖は、越中の国の住人なり」とされている。
南北朝時代
[編集]氏家氏が歴史上その名を知られるようになるのは南北朝時代からである。氏家重定・氏家重国は北陸地方の守護で北朝方であった斯波氏の配下として、南朝方の重鎮新田義貞を討ち取るという功績をあげ、恩賞を拝領し美濃に地盤を築いたといわれる。これが美濃氏家氏の始まりである。さらに、氏家氏の一族はのちに奥州探題となった斯波家兼とその子息(斯波直持、斯波兼頼)に従い[1]、奥州氏家氏や出羽氏家氏となる。なお、下野国にとどまった氏家氏の一族は南北朝時代に断絶したとされている。
室町時代~江戸時代以降
[編集]美濃氏家氏は美濃守護の土岐氏やその守護代の斎藤氏と結びつくことによって、大垣の地の周辺にその勢力を広げた。上述の直元(卜全)の代に、土岐氏が追放され、斎藤氏もまた弱体化すると、尾張織田氏に属し、その家臣として勢力を保全した。直元の戦死後、子の直昌(直通)は引き続き織田氏の家臣として仕え、本能寺の変後は新たに勃興した羽柴秀吉に仕え活躍した。直通の没後は弟の行広が跡を継いだが、秀吉の没後、関ヶ原の戦いの際に西軍についたため改易となり、浪人となった行広は大坂の陣で大坂方につき戦死した。なお、行広の弟の行継の子孫が関ヶ原の戦い後に熊本藩に仕え、明治維新を迎えた。
陸奥氏家氏は代々大崎氏の宿老として家中に重きをなし、岩出山城を領した[2]が、戦国時代になると大崎氏にしばしば反抗的な姿勢をとるようになる。奥州仕置によって大崎氏が滅亡した後、氏家吉継は伊達氏に仕えたもののまもなく没し、氏家氏の直系は断絶した。のち遠縁の者によって家名が再興され、明治維新まで存続した。
羽州管領斯波兼頼が建てた最上氏の重臣、氏家定直を始めとする一族は、斯波兼頼が若年のおりに後見を務めた氏家道誠[3]の縁者が、兼頼に従って出羽に入った後裔と思われる[4]。戦国時代、氏家守棟は最上義守や最上義光の家老として活躍した[5]。しかし、子の氏家光棟は天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いで戦死したため嫡流は途絶え、最上氏の一族成沢氏から光氏を迎え、名跡を後に伝えた。最上氏改易後、子孫は毛利氏に仕え幕末まで続いた。
その他の氏家氏
[編集]江戸時代の武鑑では下総国生実藩森川氏家中に氏家氏が登場している。また出羽国庄内藩及び若狭国小浜藩酒井氏家中に氏家氏が登場することがある。
系譜
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
宇都宮朝綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏家公頼1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公信2 | 中里高信 | 奥州氏家家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経朝 | 仲綱3 | 公継?1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公宗 | 重基 | 重定4 | 宗継?2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周綱 | 貞朝 | 重国5 | 貞継?3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱元 | 忠朝 | 定国6 | 詮継4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重起7 | 直継5 | 重継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
盛国8 | 直隆6 | 重清 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰国9 | 隆継7 | 宗隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
行国10 | 隆永 | 隆時8 | 秀隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
行隆11 | 直俊9 | 広隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直元12 | 直益 | 景継10 | 広継 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直昌13 | 行広14 | 行継 | 隆継11 | 直明 | 隆澄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重近 | 元高 | 吉継12 | 直時 | 義成 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元政 | 女 | 直義 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富田守実 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
守綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 中里清勝 (氏家主水)13 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清継14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 「留守文書」延文1年10月22日条、氏家彦十郎。康安1年7月6日条、氏家伊賀守
- ^ 「伊達貞山治家記録」「伊達政宗記録事蹟考記」
- ^ 『大日本史料』延元元年3月22日2条(6編3冊242頁)、「相馬岡田雑文書」
- ^ 『山形市史 原始・古代・中世編』
- ^ 『性山公治下記録』、天正九年五月二日付「最上義光書状」など