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清原岑成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清原真人岑成から転送)
 
清原岑成
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 延暦18年(799年
死没 貞観3年2月29日861年4月12日
改名 美能王(初名)→岑成王→清原岑成
別名 峰成、峯成
官位 従四位上参議大宰大弐
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 清原真人
父母 父:弟村王
永安、安良、安基
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清原 岑成(きよはら の みねなり)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。当初美能王次いで岑成王を称するが、臣籍降下して清原真人姓を賜与された。舎人親王の玄孫。筑後守弟村王の子。官位従四位上参議大宰大弐

経歴

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天長5年(828年近江大掾を経て、天長6年(829年従五位下筑後守に叙任される。その後、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年正五位下承和元年(834年従四位下と、淳和朝から仁明朝初頭にかけて順調に昇進を重ねる。またこの間の天長10年(833年)には美能王から岑成王に改名している。

承和7年(840年)淳和上皇の崩御にあたっては、養役夫司を務めている。承和11年(844年)正月に越前守に任ぜられて赴任するが、休暇により帰京したまま隠棲して出仕しなかったことから、同年10月に弾劾を受けて解任され、さらに翌承和12年(844年)には位階も剥奪された。

承和13年(846年)赦されて再び正五位上に叙せられ、承和15年(848年)従四位下に復した。この間、大和守美濃守弾正大弼を歴任する。嘉祥2年(849年)臣籍降下して清原真人姓を賜与される。同年閏12月左中弁

嘉祥3年(850年文徳天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられる。仁寿2年(852年)2月に蔵人頭を解かれて再度越前守に任ぜられて現地に赴任するが、8月には弾正大弼として京官に復した。以降、斉衡2年(855年)従四位上・右大弁、天安元年(857年大蔵卿と要職を歴任した。

清和朝に入り、貞観元年(859年)参議に任ぜられて公卿に列す。貞観2年(860年)大宰大弐となり大宰府へ赴任するが、翌貞観3年(861年)2月29日に任地で卒去。享年63。最終官位は参議従四位上行大宰大弐。

人物

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清廉で正直であり、細かいことには拘らない性格であった。大和守在任時は盛んに官舎を改造し、政治の才能があると称賛された[1]

逸話

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岑成が大弐として大宰府に赴任したが、府の倉庫が著しく破損していたため、修理のために神社の木を伐採しようとした。ある人が、この神社に祀られている神は霊力があり祟りにより災いを受ける、として伐採を止めるよう諫言したが、岑成は聞き入れずに伐採を強行した。このために、岑成は病を受けまもなく没したという[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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  • 父:弟村王[1]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:清原永安[3]
    • 男子:清原安良[3]
    • 男子:清原安基[3]

脚注

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  1. ^ a b c 日本三代実録』貞観3年2月29日条
  2. ^ a b c d e f g 『公卿補任』
  3. ^ a b c d 続日本後紀』承和13年7月2日条
  4. ^ 『蔵人補任』

参考文献

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