コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

清水盛明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水 盛明(しみず もりあき[1] / もりあきら[2]1896年明治29年〉8月24日[1][3] - 1979年昭和54年〉4月3日[1][3])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

愛知県出身[1][2][3]久留米で陸軍少佐・清水盛次の長男として生まれる[1]広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業[1][3][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる[1][4]。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業[1]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]

1926年(大正15年)3月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第3連隊中隊長に就任[1]。同12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、国際連盟随員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級[1]。1933年(昭和8年)2月、山砲兵第11連隊大隊長に就任[1]。1934年(昭和9年)3月、陸軍兵器本廠付(新聞班)となり、1936年(昭和11年)8月、砲兵中佐に進んだ[1]。1937年(昭和12年)9月、内閣情報官に転じ、1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進した[1][2]

1938年12月、陸軍省情報部長に就任[1][2]。1939年(昭和14年)12月、イタリア大使館イタリア語版武官に発令された[1][2][3]。1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年12月に帰国した[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

その後、サンマリノ共和国名誉総領事を務めた[2]。墓所は多磨霊園(5-1-25)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、77頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』407頁。
  3. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』376頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』403、407頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。