渤海国論争
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(渤海関連の日本・中国・朝鮮文献から転送)
渤海国論争(ぼっかいこくろんそう)では、渤海について記録されている日本、中国、朝鮮の史籍文献について解説する。現在、中国と韓国・北朝鮮の学界では、『新唐書』と『旧唐書』の解釈をめぐって論争になっている。
概要
[編集]926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、そのときに歴史書などをすべて失ってしまったため[1]、中国や日本、朝鮮に残存している数少ない文献史料から紐解くしかない[2]。
日本史籍
[編集]延袤二千里,無州県館駅,処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者,靺鞨多,土人少。皆以土人為村長。大村曰都督,次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒,不宜水田。
州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、土人は少なく、みな土人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない[3]。 — 類聚国史、殊俗部、渤海・上
中国史籍
[編集]渤海本號靺鞨,高麗之別種也。唐高宗滅高麗,徙其人散處中國,置安東都護府於平壤,以統治之。武后時,契丹攻北邊,高麗別種大乞乞仲象,與靺鞨酋長乞四比羽走遼東,分王高麗故地。武后遣將撃殺乞四比羽,而乞乞仲象亦病死。仲象子祚榮立,因並有比羽之衆,其衆四十萬人。據挹婁,臣于唐。至中宗時,置忽汗州,以祚榮爲都督,封渤海郡王。其後世遂號渤海[8]。 — 五代史、四夷伝
𤣥宗先天二年二月拜髙麗大首領髙定傅為特進,是月封靺鞨大祚榮為渤海郡王。 — 冊府元亀、巻九六四、封冊二
女真者,渤海之別種也,契丹謂之虜真。 — 武経総要、前集巻二十二
又曰女直,肅慎氏遺種,渤海之別族也。 — 大金国志
朝鮮史籍
[編集]臣謹按渤海之源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落。靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小蕃,嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作孽而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流(中略)楛矢国毒痛益盛。
渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった。(中略)楛矢の国の毒痛、益々盛んならん[10][注釈 1]。 — 崔致遠、謝不許北国居上表
大抵交隣国柔遠人,固封疆謹使命者,乃万世保国之長策也。(中略)因其来使,待之以礼,接之以誠,申結盟好,豈非保国乃長策。而太祖之慮不及此,何哉。契丹之失信於渤海,何與於我。而為渤海報復,拒其使甚矣,而流之於海島。卻其橐駝甚矣,而致令餓死。是不特絕之而止。絕之如仇讎。彼之報我以仇讎,無足在也。自是辺釁日深。定宗置光軍為辺備,其禍己濫觴矣。……若使契丹,不因金兵而勦沴,蒙古而殲滅,則麗之存亡成敗,亦未可測。究厥所由,則皆麗祖待強寇失其道,軽絶和親之致然也。胎謀之失,可勝嘆哉。
隣国と通交することは、万世に至るまで国家を保持する最良の方策である。……契丹の使節が来た時、礼儀に則ってこれを応待し、誠心を以てこれに接し、両国の盟約を結ぶのが国家を保つ良策であったであろう。ところが太祖王建の考慮がこの点に及ばず(強硬な手段を以て絶和したのは)一体どうしたわけであろうか。〈契丹ノ信ヲ渤海ニ失ヘル、何ゾ我ニ与ランヤ〉つまり、契丹が渤海を裏切ってこれを滅亡させたということなど、どうして我が国と関係があるのか。そして、渤海のために報復するといって、契丹の使節を拒絶することさえ甚だしく誤った行為であるのに、剰えこれを海島に流している。その贈り物のラクダを却けることさえ甚だしく誤った行為であるのに、なおこれを餓死させている。こうした行為は、ただに契丹と通交を絶つのみではなく、契丹を仇敵に回すこととなり、契丹が我が国に対して仇を以て報復しようとするに至るのも当然である。これより以降、辺境での争いが日に日に多くなってきて、そのために定宗の時代には光軍を設置して、これに対処しなければならなくなった。こうした辺境での紛争の根源は、実に太祖の処置にある。……嘆くに勝えないことである[12]。 — 徐居正、東国通鑑、一三・太祖二十五年条
高句麗殘孽類聚,北依太白山下,國號爲渤海。 — 三国史記、巻四六・崔致遠伝
唐玄宗,以渤海靺鞨越海入寇登州,遣太僕員外卿金思蘭歸國。仍加授王爲開府儀同三司・寧海軍使,發兵撃靺鞨南鄙。 — 三国史記、巻八・聖德王三十二年七月条
入唐宿衛左領軍衛員外將軍金忠信上表曰,臣所奉進止,令臣執節,本國發兵馬討除靺鞨。 — 三国史記、巻八・聖德王三十三年正月条
開元二十一年,大唐遣使敎諭曰,靺鞨渤海,外稱蕃翰,內懷狡猾。今欲出兵問罪。卿亦發兵相爲掎角。聞有舊將金庾信孫允中在。須差此人爲將。仍賜允中金帛若干。於是大王命允中弟允文等四將軍,率兵會唐兵伐渤海。 — 三国史記、巻四三・金庾信伝
一然は『三国遺事』で、大祚栄を粟末靺鞨の酋長とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている[13][14]。
渤海本粟末靺鞨也。 — 高麗史、巻一・太祖八年九月庚子条
靺鞨強大,後称渤海。降契丹,為東契丹。作濊貊・靺鞨列伝[18]。 — 許穆、眉叟記言、 巻三二・記言東事序
震國公姓大氏,名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者,臣於高句麗者也[19]。 — 柳得恭、渤海考、君考
高麗不修渤海史,知高麗之不振也。昔者高氏居于北,曰高句驪。扶餘氏居于西南,曰百濟。朴昔金氏居于東南,曰新羅。是爲三國。宜其有三國史。而高麗修之是矣。及扶餘氏亡・高氏亡,金氏有其南,大氏有其北,曰渤海。是謂南北國。宜其有南北國史。而高麗不修之非矣。夫大氏者何人也。乃高句驪之人也。其所有之地何地也。乃高句驪之地也。而斥其東斥其西斥其北而大之耳。及夫金氏亡・大氏亡。王氏統而有之。曰高麗。其南有金氏之地則全。而其北有大氏之地則不全。或入於女眞,或入於契丹。當是時爲高麗計者。宜急修渤海史。執而責諸女眞曰,何不歸我渤海之地。渤海之地乃高句驪之地也。使一將軍往收之,土門以北可有也。執而責諸契丹曰,何不歸我渤海之地。渤海之地乃高句麗之地也。使一將軍往收之,鴨綠以西可有也。竟不修渤海史。使土門以北・鴨綠以西,不知爲誰氏之地。欲責女眞,而無其辭。欲責契丹,而無其辭。高麗遂爲弱國者,未得渤海之地故也。可勝歎哉。或曰,渤海爲遼所滅。高麗何從而修其史乎。此有不然者。渤海憲象中國,必立史官。其忽汗城之破也,世子以下奔高麗者十餘萬人。無其官則必有其書矣。無其官無其書。而問於世子,則其世可知也。問於隱繼宗,則其禮可知也。問於十餘萬人,則無不可知也。張建章唐人也。尙著渤海國記。以高麗之人,而獨不可修渤海之史乎。鳴呼,文獻散亡,幾百年之後,雖欲修之,不可得矣。余以內閣屬官,頗讀秘書。撰次渤海事,爲君・臣・地理・職官・儀章・物産・國語・國書・屬國九考。不曰世家・傳・志,而曰考者,未成史也。亦不敢以史自居云。甲辰閏三月二十五日[21]。
高麗が渤海史を編修しなかったことは、高麗の国勢が振わなかったことを示している。昔、(我が国には)高句麗・百済・新羅の三国が存在していた。したがって、三国の歴史が編修されるべきであり、高麗がこれを編纂したことは妥当である。(その後)百済・高句麗が亡び、我国の南方には新羅が、北方には渤海が存在した。これを南北国という。したがって、南北国史が編纂されるべきであったが、高麗はこれを編纂しなかった。一体、渤海の大氏は何人であるか。高句麗人である。その領有した地は誰の土地であるのか。高句麗の土地である。渤海はそれを東・西・北へと開拓していったのである。その後、新羅・渤海が亡び、王氏高麗がこれを統一した。高麗は南方新羅の旧領はすべて領有したが、北方の渤海の旧領はほとんど領有できず、女真や契丹のものとなってしまった。この時に当たって高麗がすべきことは、早急に渤海の歴史を編修することであり、(渤海の領域を明らかにし、)これを以て女真および契丹と交渉して渤海の旧領返還を求めたならば、いとも簡単に、土門以北・鴨緑江以西を領有できたであろう。ところが高麗は渤海史を編修しなかったので、土門以北・鴨緑江以西の土地が、本来誰のものであるかを不明確にしてしまった。女真・契丹を責めて返還を求めようにも、その根拠を失ってしまった。高麗が弱国となったのは、渤海の旧領を奪還し得なかったからである[22][23]。 — 柳得恭、渤海考、序
許眉叟,作渤海列傳,頗欠詳,渤海本粟末靺鞨,高句麗別種[19]。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海
渤海本粟末靺鞨,高句麗別種(中略)新羅之末,幅員分裂,不能統一。大氏乗間,略定全遼。朝鮮句麗之地殆失大半矣。(中略)王之流其使殺其駝,非真為渤海之故。其志将欲拠義争地。実辞直為壮也。不幸金甄末復,明年身亡。無奈天意何也。不然大氏之興亡,何与於我。面絶之。々其至此乎。是故其遺訓切々。然以契丹禽獣之俗為禁,少無畏忌之意[24]。
新羅末期の政情が混乱している時、大氏すなわち渤海が、その間隙に乗じて全遼地方を攻略してしまった。そのため、かつての古朝鮮・高句麗の領土の大半を(我が国は)失ってしまった。(中略)王建が使者を流し、ラクダを餓死させて、契丹と和を絶ったのは、実は渤海のためではない。王建の真意は「義ニ拠リテ地ヲ争ハント欲ス」つまり、大氏渤海に略取され、さらに契丹に奪われた高句麗の旧領を、契丹と争ってでも奪還することにあったのである。ただ不幸にも王建は間もなく没してしまった(ので実現するには至らなかった)。「然ラザレバ」つまり、もしそのような理由に基づくものでなかったならば、渤海の興亡など我が国とは何ら関係のないことであるから、あのような甚だしい行動は取らなかったであろう。この故に太祖の遺訓は、切々と禽獣のごとき国である契丹との通交を誡しめているのであって、少しもこれを畏れてはいない[25]。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海
李氏朝鮮の実学者である安鼎福は、渤海を朝鮮の歴史として扱うことは不当であるとした[26]。
靺鞨大祚栄……[28]。 — 安鼎福、東史鋼目、巻四下・新羅孝昭王九年条
ああ、わが国が鴨緑以西を棄て、敵国に譲ったのはいつからであったのか。曰く、金文烈が三国史を編纂した時からであろう。なぜか。曰く、渤海の大氏に伝わる血統を推し量れば、すなわちわが檀君の子孫であり、その統御した人民を問えば、つまりわが扶余族の種族であり、その拠点とし領有した疆土は、すなわち高句麗の旧領である。それなのに、大氏をわが国史に記さなければ、誰を記すべきであろうか。大氏をわが国史に著わさなければ、何を国史に記すべきであろうか[29]。 — 申采浩、読史新論、第十章
按,渤海本黒水靺鞨之粟末部,臣属於高麗者,居古粛慎氏地[30]。 — 韓致奫、海東繹史、巻一一・世紀一一・渤海条
靺鞨之種有曰粟末大氏,常附高句麗。或曰句麗之別種也[31]。 — 洪奭周、渤海世家
所謂靺鞨即東沃沮之濊人,漢史所謂不耐濊是也,其謂之靺鞨者,唐宋之際,渤海大氏據我北道三百餘年,渤海者靺鞨也[32]。 — 丁若鏞、我邦疆域考、巻四・靺鞨考
注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 酒寄雅志 (2004年10月19日). “早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」”. 日本海学推進機構. オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 姜成山 (2014). 渤海王国の社会と国家 : 在地社会有力者層の検討を中心に. p. 11. NAID 500000729982 .
- ^ 礪波護、武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史 (6)〉、1997年1月、404頁。ISBN 978-4124034066。
- ^ 新唐書(1)>北狄列傳>渤海>渤海는 본래 粟末靺鞨로서 高句麗에 附屬되어. 国史編纂委員会. オリジナルの2018-11-07時点におけるアーカイブ。
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、425頁。ISBN 978-4582802832。
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、413頁。ISBN 978-4582802832。
- ^ “舊唐書(1)>北狄列傳>渤海靺鞨>渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也”. 国史編纂委員会. オリジナルの2018年11月7日時点におけるアーカイブ。
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- ^ a b “발해”. 韓国コンテンツ振興院. オリジナルの2021年8月22日時点におけるアーカイブ。
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- ^ “『東事』 권3_규장각소장 발해사자료”. KRpia. (2004年1月1日). オリジナルの2021年9月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “사료라이브러리 > 발해사자료집 >渤海考 >발해고 전문(渤海考 全文) >渤海考序”. 東北アジア歴史財団. オリジナルの2017年1月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ 石井 2001, p. 194-195
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 23
- ^ 石井 2001, p. 191
- ^ 石井 2001, p. 191-192
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 54
- ^ “사료라이브러리 > 발해사자료집 >東史綱目 >발해의 기록과 우리의 역사기록이 마땅하지 않다.”. 東北アジア歴史財団. オリジナルの2017年1月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 石井 2001, p. 192
- ^ 石井 2001, p. 199
- ^ 石井 2001, p. 209
- ^ 石井 2001, p. 195
- ^ 池内 1933, p. 175
参考文献
[編集]- 韓東育「東アジア研究の問題点と新思考」『北東アジア研究』別冊2、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2013年5月、ISSN 1346-3810、NAID 120005710669。
- 朴時亨『古代朝鮮の基本問題「渤海史研究のために」』学生社、1974年。
- 河上洋『渤海の地方統治體制 : 一つの試論として』東洋史研究、1983年9月。
- 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年。
- 池内宏『満鮮史研究 中世第一冊』吉川弘文館、1933年。
- 東北アジア歴史財団 編『동아시아의 발해사 쟁점 비교 연구』東北アジア歴史財団〈동북아역사재단 기획연구 29〉、2009年9月 。