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あやめ踊り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
潮来音頭から転送)

あやめ踊り(菖蒲踊、あやめおどり)は茨城県潮来地方に伝わる日本舞踊。潮来あやめ踊りとも。地唄の「潮来音頭」「潮来甚句」をあわせてもこう呼ばれる。

解説

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明治以前、「東廻り航路」では利根川を利用するために荷船が潮来を経由しており、当地は水上交通の要であった[1]。1649年(慶安2年)には仙台藩蔵屋敷が置かれ、その後には津軽藩南部藩の蔵屋敷がおかれるなど、潮来の町は大きく発展した[1]。最盛期には年間400艘もの荷船が出入りしたと伝えられる[2]

潮来に限らず、河岸では男性の労働者が増えると同時に女性の割合が低くなるため、売春業が発展した[1]。当初は船上で身の回りの世話と同時に売春を営む「船女房」と呼ばれる職業が隆盛したが、潮来が水運の基地として発展するにつれ、陸に遊びの要素が持ち込まれた[1]。これらを規制するために水戸藩が条件付きで1681年(天和元年)に遊廓の設置を許可すると、1684年 (貞享元年) 、浜町に遊郭の一部が開業した[1]。以来、浜町地区(潮来市潮来・浜丁)では妓楼引手茶屋が多く軒を連ねるようになり[2]、その数は50軒を越えた[3]。これらの妓楼には船乗りなど港の労働者だけではなく、鹿島神宮香取神宮への参詣客なども訪れた[3]。また、近隣の牛堀河岸も「風待ち港」として同様に繁栄した[2]

これら潮来の妓楼では、客への顔みせや座敷踊りとして「あやめ踊り」[注 1]が踊られた[3]。また、このあやめ踊りの伴奏に唄われたのが「潮来甚句」と「潮来音頭」である[3]

潮来は18世紀ごろから河岸としての機能を失いはじめたが、観光地として明治中頃まで栄え続けた[1]。明治後期から大正にかけて妓楼の減少がはじまり、潮来の花街は衰退していったが[4]公娼制度が廃止される直前の昭和の初め頃には「菖蒲楼」「玉楼」「福家楼」の3軒の妓楼があり、それぞれに12,3人の娼妓がいた。これらの娼妓によって威勢よく菖蒲踊が踊られた[5]。松川二郎による『民謡をたづねて』では当時のあやめ踊りについて次のように記されている[5]

さり乍ら其の踊は、唄の文句によって聯想されるが如く優美なものではない、唄と三味線は藝者が承り(他に太鼓がはいる)踊子は凡て娼妓である、鱶鮫のやうな逞しげな女が。松丸太のやうな脛をあらはに赤い腰巻を蹴飛ばして「アリヤサー」とくるところはさあ何と云はうか、滅法界活潑なものである — 松川二郎、『民謡をたづねて』[5]

公娼制度廃止ののちにはこれらの唄や踊りは芸妓によって伝えられるようになったが、「あやめ踊り」はより洗練されたものに形をかえた[5]。潮来の花街は日本の高度経済成長期には一時的に回復するも再び衰退し、昭和50年代後半には芸妓は数名にまで減り、平成には潮来から芸者置屋が消えた[6]

21世紀の現在ではあやめ踊りは芸を受け継いだ女性団体によって、潮来市で例年行われる「水郷潮来あやめまつり」のイベント「あやめ踊り披露」で伝統芸能として踊られる[7]。また、2016年にはNeoBalladのアルバム『04~寿~(ZeroYon~Kotobuki~』に「潮来あやめ踊り」としてカバー・収録された[8]

潮来音頭

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潮来音頭(いたこおんど)は潮来地方に伝わる日本の民謡であり座敷唄[3]。「あやめ踊り」の地唄の一つ。囃子言葉に「ションガイ」と唄われるため、鹿島下総近辺など利根川各地で唄われた「ションガエ」との囃子言葉を持つ盆踊り唄「浄観節」が変化したものと推定される[3][9]。「ションガイ節」とも呼ばれる。江戸時代に各地で流行した「潮来節」からは詞の移入はあるものの、直接の関係はない[10]

歌詞

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揃うた揃うたよ 踊り子が揃うた (アリャサー) 秋の出穂でほより よく揃うた ションガイー

 (返し)よく揃うた 秋の出穂 よく揃うた ションガイー


潮来出島でじまの 真菰まこもの中に (アリャサー) あやめ咲くとは しおらしやションガイー

 (返し)しおらしや あやめ咲くとは しおらしや ションガイー


主と別れて 松原行けば (アリャサー) 松の露やら 涙やらションガイー 

 (返し)涙やら 松の露やら 涙やら ションガイー


— 参考:『日本民謡集』「潮来音頭(あやめ踊その一)」(岩波書店、1960年)、
別冊一億人の昭和史 第二〇号『日本民謡史』「潮来音頭」(毎日新聞社、1979年)

上記の歌詞は一例であり、他の節も伝えられている。詞形は七七七五調[10]。上の句は音頭によって唄われ、下の句の返しが別の唱和者によって唄われる。「揃うた揃うたよ~」は相馬盆唄と相似している[10]。潮来に存在する「潮来あやめ」の歌碑には「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはしおらしや」と刻まれており、この句は水戸黄門・徳川光圀が詠んだものと伝えられているが[11]、恐らくは「潮来出島の~」の節は1822年(文政5年)の『浮れ草』「潮来節」にある「いたこ出島の真菰の中に、あやめ咲とはつゆ知らず、しょんがへ」からのもので、この節は他の多くの民謡にも歌われている[10]。「あやめ踊り」として音頭に続いて「潮来甚句」が唄われる場合には、最後に「さらばこれよりションガイ節やめて次の甚句に移りましょションガイー」のように唄われ潮来甚句へと変わり、返しは唄われない。

潮来甚句

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潮来甚句(いたこじんく)は潮来地方に伝わる日本の民謡であり座敷唄[3]。「あやめ踊り」の地唄の一つ。塩釜甚句伊達藩の米積出しの廻船と共に南下し、潮来に伝えわったのちに変化したものであると推定される[3]。「潮来音頭」に比べてややテンポが速く、「潮来出島の……」などの共通の詞をもつ。七七七五調の後に唄われる「後囃子」が特徴の一つである[3]

歌詞

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揃うた揃うたよ 足拍子に手拍子 (アリャ ヨイヨイ ヨイヤサー) 秋の出穂より ヤンレよく揃うた(ヨイヨイ ヨイヤサー)

 (後囃子)潮来通いの船なれば 津の宮前から帆を下げて 潮来の河岸へと 乗り込め乗り込め


潮来出島の ざんざら真菰 (アリャ ヨイヨイ ヨイヤサー) 誰が刈るやら ヤンレ薄くなる(ヨイヨイ ヨイヤサー)

 (後囃子)鹿島香取に 神あるならば 逢わせ給えよ 今一度


私ゃ潮来の あやめの花よ (アリャ ヨイヨイ ヨイヤサー) 咲いて気をもむ ヤンレ主の胸(ヨイヨイ ヨイヤサー)

 (後囃子)恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす


— 参考:『日本民謡集』「潮来甚句(あやめ踊その二)」(岩波書店、1960年)、
別冊一億人の昭和史 第二〇号『日本民謡史』「潮来甚句」(毎日新聞社、1979年)

上記の歌詞は一例であり、他の節も伝えられている。詞形は七七七五調[12]。後囃子中の「津の宮前」とは現在は香取市に編入されている旧・津宮村近辺を指す[12]。「鹿島香取に神あるならば~」の節は1822年(文政5年)の『浮れ草』「潮来節」にある「さまよ鹿島に神あるならば 助け給えや要石 しょんがへ」からのもので[12]、潮来音頭と共通している。「恋に焦がれて鳴く蝉よりも~」は類似の詞をもつ民謡・歌が多くあり、元禄正徳延享の頃の流行歌にも唄われた[12]

脚注

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注釈

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  1. ^ 古くは「潮来騒ぎ」[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f 前島 (2001), pp.19-20
  2. ^ a b c 潮来の歴史”. 潮来市公式ホームページ. 潮来市. 2021年10月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 仲井,丸山,三隈 (1972), p.46
  4. ^ 前島 (2001), p.21
  5. ^ a b c d 『日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)』, p.59
  6. ^ 前島 (2001), pp.27-29
  7. ^ あやめ踊り披露 ”. 潮来市公式ホームページ. 潮来市. 2021年10月6日閲覧。
  8. ^ Discography”.  :::NeoBallad.com:::. 2021年10月6日閲覧。
  9. ^ 『日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)』, p.48
  10. ^ a b c d 町田,浅野 (1960), p.126
  11. ^ 鈴木 一夫『水戸黄門紀行』保育社〈カラーブックス〉、1990年、10頁。ISBN 9784586508044 
  12. ^ a b c d 町田,浅野 (1960), p.127

参考書籍

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  • 前島 裕美「近現代における地方小都市の盛り場の復原--水郷潮来の変遷を事例として」『歴史地理学』第43巻第4号、歴史地理学会、2001年、18-31頁。 
  • 仲井 幸二郎、丸山 忍、三隈 治雄『日本民謡辞典』東京堂出版、1972年。 
  • 日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 町田 喜章、浅野 健二『日本民謡集』岩波書店岩波文庫〉、1960年。 
  • 『別冊1億人の昭和史(第二〇号)日本民謡史 「北海盆唄」から「安里屋ユンタ」まで』毎日新聞社、1979年。 

外部リンク

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