瀧川資言
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(瀧川亀太郎から転送)
人物情報 | |
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別名 | 滝川資言、瀧川龜太郎、滝川亀太郎 |
生誕 |
1865年12月29日 出雲国島根郡(現・松江市中原町) |
死没 |
1946年2月23日 (80歳没) 松江市中原町 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 文献学・中国文学・東洋史 |
研究機関 | 第二高等学校・大東文化学院 |
学位 | 文学博士 |
瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(1865年12月29日) - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎(かめたろう[1])、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。
生涯
[編集]1865年(慶応元年)11月12日に出雲国島根郡(現・松江市中原町[2])にて士族であった杢之丞の長男として生を受けた。1882年(明治15年)旧制松江中学を中退し上京[3]。島田篁村の双桂精舎で学んだ後、1887年(明治20年)、東京帝国大学古典講習科漢書課卒業[3]。
1897年(明治30年)に第二高等学校教授、1926年(大正15年)に大東文化学院教授となる。1931年(昭和6年)、東北帝国大学より文学博士の学位を授与される。1946年(昭和21年)2月23日、逝去。戒名は龜鏡院君山自秀居士。
東京および仙台に居住することが多かったが、最晩年の1945年(昭和20年)3月31日からは戦火を逃れるため郷里の松江市に疎開した。同市北堀町に彼が晩年を過ごした武家屋敷の旧宅(伝、塩見小兵衛邸)が現存している。博覧強記で、取材に訪れた新聞記者を驚かせ、著作の『史記会注考証』の署名は「日本出雲瀧川資言」である。
「瀧川氏系図」によれば、戦国時代の武将滝川一益の兄であった瀧川範勝(瀧城主)は、松平出雲守大番四番組瀧川資信の四世前の祖とされ、その瀧川資信を瀧川氏元祖として、資言は十世にあたるとされる。
著書
[編集]- 『支那史』市村瓚次郎共纂著 吉川半七 1891-92
- 『高等漢文標註近古文鈔』編 金港堂 1913
- 『纂評論語集註』編 金港堂 1913
- 『審定十八史略鈔』編 金港堂書籍 1928
- 『審定日本外史鈔』編 金港堂書籍 1928
- 『審定孟子鈔』編 金港堂書籍 1928
- 『審定論語鈔』編 金港堂書籍 1928
- 司馬遷『史記会注考証』裴駰集解 司馬貞索隠 張守節正義 東方文化学院東京研究所 1934
- 『史記会注考証 孔子世家』東方文化学院東京研究所 1935
- 『史記会注考証 仲尼弟子列伝』東方文化学院東京研究所 1935
- 『史記会注考証 伯夷列伝・管晏列伝・老荘申韓列伝』東方文化学院東京研究所 1935
- 黄堅『纂標古文真宝前集』松雲堂書店 1937
- 『史記会注考証 太史公自序』東方文化学院東京研究所 1937
- 『史記会注考証 孟子荀卿列伝・孟嘗君列伝』東方文化学院東京研究所 1937
- 『史記会注考証 項羽本紀・留侯世家・伯夷列伝・魏公子列伝・淮陰侯列伝』東方文化学院 1939
- 『孝経 附・古文孝経』玄宗皇帝注 纂標 松雲堂書店 1940
- 『纂標唐宋八家文読本鈔』編 東京開成館 1941
- 『史記会注考証』史記会注考証校補刊行会 1956
- 『大學中庸章句 纂標』松雲堂書店
- 『訓注・史記會注考證』考證 石川梅次郎・原田種成訓注 松雲書院 1977
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 水沢利忠『史記会注考証校補』巻九所載「瀧川氏系図」および「瀧川龜太郎博士年譜」(183-197頁. 史記会注考証校補刊行会 昭和45年)
- 池田光子「瀧川資言と西村天囚─西村家資料を用いた一考察―」『中国研究集刊』第69号、大阪大学中国学会、2023年 。
関連項目
[編集]- 史記会注考証
- 武家屋敷 (塩見縄手) - 松江市の塩見縄手にある博物館。瀧川資言の旧邸。
- 桐岳寺 - 松江市奥谷町にある曹洞宗の寺。瀧川資言の墓がある。