コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

火除地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
火除明地から転送)
広重『名所江戸百景』より「筋違内八ツ小路」=現在の交通博物館跡地~神田郵便局あたり。明暦大火ののち筋違橋門(すじかいばしもん; 画中では右に見切れている)に隣接して設けられた火除地であった。画面奥(霞で表現されている部分)は神田川。その手前には火除土手が見える。土手の切れ目は昌平橋
なお、それまで連雀町と呼ばれる町人地がここにあったが、住民は郊外(現在の三鷹市下連雀付近)に移され、その後新田開拓にあたっている。

火除地(ひよけち)とは、江戸幕府明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地[1]。広義では、同様の趣旨を持った街路である広小路なども含まれる。このため、狭義の火除地を火除明地(ひよけあきち)と呼んで区別する場合もある。

概要

[編集]

江戸の急速な発展により火災の危険が増大したとして、その延焼防止のために火除地を作る構想は早くから存在したとされているが、実際に実行されたのは明暦の大火 (1657年)による甚大な被害の後であった。同大火後に焼け跡5ヶ所を火除地に充てた他、以後も主として江戸城への類焼を防止する観点から江戸城の北西側を中心に少しずつ増やされて享保年間には13ヶ所にも増大された。

ただし、火除地は単なる空地だったわけではなく、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に利用を許すこともあった。このため、幕府の薬園馬場、小規模な露店並びが設置されている例も存在した。

過去に火除地が存在した場所

[編集]

江戸城への延焼と町人地内での大火への進展抑制を目的として配置されたと考えられ[2]明暦の大火後は、

  1. 外堀と隅田川の隣接に配置(溜池 - 外堀 - 神田川 - 隅田川の水面と土手)
    • 白銀町、水戸邸前広小路、湯島広小路、御茶水広小路、筋違橋火除地、両国広小路、尾張邸裏広小路
  2. 江戸城の北西方向に配置
    • 田安門外火除地、代官町明地
  3. 町人地の中心部に配置
    • 中橋広小路、長崎町広小路、大工町広小路、四日市広小路、四日市防火堤

が該当する。

発達と変容

[編集]

元禄期頃(17世紀末)までは火除機能の専用空間であった火除地は、元禄から享保期(18世紀前半)にかけて、防火体制の整備や都市共同体の成熟により、防火よりレクリエーションのための広場としての性格が強くなり、時代が下るとともに歓楽地として進展していった[3]。それがあまりに過熱したため、延享年間(1740年代)には、一部を除き、娯楽利用が禁止され、火除機能純化策がとられた[3]。遊興地としての利用が引き続き許された両国橋付近は宝暦年間(1750年代)には空前の盛況となった(両国広小路の項参照)[3]明和安永期頃(18世紀後半)より、各地で火除地での娯楽施設の設置申請が相次ぎ、禁止されていた地域でも再びレクリエーションの場として発達していった[3]

また8代将軍の徳川吉宗の時代には、江戸への人口集中が進み、火除地の新設は困難となり防火建築の奨励が防火対策の中心となった[1]

幕末には、幕府の弱体化、市街地の高度利用の必要性の高まり、経済的能力の不足などの理由で、火除地や防火建築が減少した状態で明治維新を迎えた[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 第1章 建築防火関係法制史”. 東京理科大学 研究推進機構総合研究院 火災科学研究所. 2023年6月13日閲覧。
  2. ^ 斉藤庸平, 田畑貞寿「火除地等の防火機能に関する実証的研究」『造園雑誌』第55巻第5号、日本造園学会、1991年、355-360頁、doi:10.5632/jila1934.55.5_355ISSN 0387-7248NAID 110004661575 
  3. ^ a b c d 渡辺達三「近世広場の成立・展開火除地広場の成立と展開 (2)」『造園雑誌』第36巻第2号、日本造園学会、1972年、27-34頁、doi:10.5632/jila1934.36.2_27ISSN 0387-7248NAID 110004659299 

参考文献

[編集]

江戸の広場 ISBN 4130201387

関連項目

[編集]