烏丸光栄
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄2年8月3日(1689年9月16日) |
死没 | 延享5年3月14日(1748年4月11日) |
別名 | 号:不昧真院 |
戒名 | 海院浄春 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 桜町天皇→桃園天皇 |
氏族 | 烏丸家 |
父母 | 父:烏丸宣定、母:長野政子[1] |
兄弟 | 光栄、中御門宣誠 |
妻 | 正室:瑞應院(松平綱昌の娘) |
子 |
尹光、日野資総、勘解由小路資望、裏松光世、日野資枝、烏丸光胤室、松平定賢継室ら 養子:光胤 |
烏丸 光栄(からすまる みつひで、元禄2年〈1689年〉 - 延享5年〈1748年〉)は、江戸時代中期の公卿・歌人。烏丸宣定の子。官位は正二位・内大臣。
経歴
[編集]累進して正二位・内大臣に至る。なお、烏丸家で内大臣にまで至ったのは、この光栄だけである[注釈 1]。号は不昧真院。法名は海院浄春。和歌を霊元天皇を始め中院通躬や武者小路実陰に師事した。また和歌の門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がおり、天皇は光栄から古今伝授を受けた。また、三上藩主である遠藤胤忠にも古今伝授を授けた。
優れた歌人であり、「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」などの著書がある[1]。延享5年(1748年)3月14日に死去。享年60。家督は享保18年(1733年)に光栄の養子となっていた、弟の中御門宣誠の密子(都合上、認知できないために存在が秘密になっている子)[注釈 2][2]の光胤が相続した[3]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連文献
[編集]- 中川豊『近世中後期における〈知〉の伝播に関する研究 : 歌壇・文事・蔵書』(博士(学術)論文・文化科学研究科日本文学研究専攻)総合研究大学院大学、2022年。学位授与番号: 乙第274号 。 ※第2章「烏丸光栄の伝と家集」参照。