観世元義
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(片山九郎右衛門 (7世)から転送)
観世 元義(かんぜ もとよし、1873年(明治6年)7月20日 - 1920年(大正9年)1月26日)は、シテ方観世流能楽師[1]。二十二世観世宗家で最後の観世大夫・観世清孝の三男で、静岡県[注 1]に生まれる[1]。二十四世観世宗家・観世左近(元滋)の実父で、観世流職分家片山家七世当主片山九郎右衛門[1]。初名・寿。号は寿雪[注 2]。
生涯
[編集]観世流職分家の片山晋三に嗣子がなかったため、その娘・光子と1891年(明治24年)に結婚して片山九郎三郎を名乗る[1]。
1895年(明治28年)に長男・清久、1907年(明治40年)に次男・寿雄が誕生[1][4][5]。兄の二十三世観世宗家・観世清廉に子がなかったため、1907年(明治40年)に清久は観世宗家の養子となる[4]。
1913年(大正2年)七世片山九郎右衛門を襲名[1]。翌年には大正天皇即位祝賀の大典能で、千歳として観世元滋とともに「翁」を勤めている[6]。1916年(大正5年)に故あって片山家を去り、以後観世元義を名乗る[1][7]。その後も京都を拠点に活動して京都観世流の中心を担い、1918年(大正7年)には丸太町に観世能楽堂を建設している。また明治以来の懸案だった観梅問題への解決に意欲を示すなど、息子を助けて流内の統一に尽力している。
1920年(大正9年)歿[1]。行年47歳。20歳以来の京都暮らしにもかかわらず、その芸風は江戸流のさっぱりとしたものだった、と四世井上八千代(寿雄改め博通の妻)が回想している。やや圭角のある人物であったというが、実子・二十四世観世宗家をよく支えたと評される[1]。
参考文献
[編集]脚註
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『観世元義』 - コトバンク
- ^ 茂山(善竹)忠亮「阪神能楽組合に見る能楽界の変革と戦時体制:狂言方 茂山久治の活動を中心に」『Core ethics』第14号、立命館大学大学院先端総合学術研究科、2018年、59-69頁、ISSN 1880-0467。
- ^ "野村四郎氏 観世宗家より雪号の差し許し". 能楽タイムズ. 株式会社能楽書林. 2021年5月11日. 2025年1月5日閲覧。
- ^ a b 『観世左近』 - コトバンク
- ^ 『片山博通』 - コトバンク
- ^ 西野春雄「令和の《大典》」『能楽研究』第44号、法政大学能楽研究所、2019年、191-206頁、doi:10.15002/00023228、ISSN 0389-9616、2025年1月5日閲覧。
- ^ 飯塚恵里人「能楽の普及と「階級」:大正期の能楽観」『東海能楽研究会 年報』第9号、東海能楽研究会、2004年、4-5頁、2025年1月5日閲覧。