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観世元義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

観世 元義(かんぜ もとよし、1873年(明治6年)7月20日 - 1920年(大正9年)1月26日)は、シテ方観世流能楽師[1]。二十二世観世宗家で最後の観世大夫観世清孝の三男で、静岡県[注 1]に生まれる[1]。二十四世観世宗家・観世左近(元滋)の実父で、観世流職分家片山家七世当主片山九郎右衛門[1]。初名・寿。号は寿雪[注 2]

生涯

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観世流職分家の片山晋三に嗣子がなかったため、その娘・光子と1891年(明治24年)に結婚して片山九郎三郎を名乗る[1]

1895年(明治28年)に長男・清久1907年(明治40年)に次男・寿雄が誕生[1][4][5]。兄の二十三世観世宗家・観世清廉に子がなかったため、1907年(明治40年)に清久は観世宗家の養子となる[4]

1913年(大正2年)七世片山九郎右衛門を襲名[1]。翌年には大正天皇即位祝賀の大典能で、千歳として観世元滋とともに「」を勤めている[6]1916年(大正5年)に故あって片山家を去り、以後観世元義を名乗る[1][7]。その後も京都を拠点に活動して京都観世流の中心を担い、1918年(大正7年)には丸太町に観世能楽堂を建設している。また明治以来の懸案だった観梅問題への解決に意欲を示すなど、息子を助けて流内の統一に尽力している。

1920年(大正9年)歿[1]。行年47歳。20歳以来の京都暮らしにもかかわらず、その芸風は江戸流のさっぱりとしたものだった、と四世井上八千代(寿雄改め博通の妻)が回想している。やや圭角のある人物であったというが、実子・二十四世観世宗家をよく支えたと評される[1]

参考文献

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脚註

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註釈

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  1. ^ このころ、観世宗家は徳川慶喜に従い駿府に在った[2]
  2. ^ 観世宗家は、特に流儀に功績のあった者に、雪の一字が付いた雅号(雪号)を授けている[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 観世元義』 - コトバンク
  2. ^ 茂山(善竹)忠亮「阪神能楽組合に見る能楽界の変革と戦時体制:狂言方 茂山久治の活動を中心に」『Core ethics』第14号、立命館大学大学院先端総合学術研究科、2018年、59-69頁、ISSN 1880-0467 
  3. ^ "野村四郎氏 観世宗家より雪号の差し許し". 能楽タイムズ. 株式会社能楽書林. 2021年5月11日. 2025年1月5日閲覧
  4. ^ a b 観世左近』 - コトバンク
  5. ^ 片山博通』 - コトバンク
  6. ^ 西野春雄「令和の《大典》」『能楽研究』第44号、法政大学能楽研究所、2019年、191-206頁、doi:10.15002/00023228ISSN 0389-96162025年1月5日閲覧 
  7. ^ 飯塚恵里人「能楽の普及と「階級」:大正期の能楽観」『東海能楽研究会 年報』第9号、東海能楽研究会、2004年、4-5頁、2025年1月5日閲覧