身毛広
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(牟宜都比呂から転送)
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 牟宜都比呂 |
主君 | 天武天皇 |
氏族 | 身毛君(牟義都国造) |
身毛 広(むげつ の ひろ)は、飛鳥時代の人物。牟宜都比呂とも書く。姓は君。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)方の功臣。
出自
[編集]身毛氏(牟義公・身毛君・身毛都君)は美濃国の地方豪族で、牟義都国造家とされる。身毛(牟義)は美濃国の武芸郡(むげのこおり、後の武儀郡)を指す[1]。また『日本書紀』は身毛氏は景行天皇の子である大碓皇子の後裔であるという[2]。
経歴
[編集]壬申の乱(672年)において大海人皇子が挙兵を決断した際、広は吉野にいた皇子のそばにおり、舎人として仕えていた[3]。美濃には皇子の湯沐邑があり、広が舎人になったのもその縁ではないかという学者もいる[4]。
皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、身毛広は村国男依、和珥部君手と3人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨評[5](後の安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの評を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。
その後の広の活躍は不明だが、乱の後、80戸の封戸を与えられた[6]。『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山[要曖昧さ回避]位以上をあたえたと記すので、広もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。
その後の身毛広については記録がない。