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粟鹿神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
粟鹿神社

拝殿
所在地 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
位置 北緯35度18分2.90秒 東経134度54分17.35秒 / 北緯35.3008056度 東経134.9048194度 / 35.3008056; 134.9048194座標: 北緯35度18分2.90秒 東経134度54分17.35秒 / 北緯35.3008056度 東経134.9048194度 / 35.3008056; 134.9048194
主祭神 天美佐利命
日子坐王
日子穂穂手見尊
社格 式内社名神大
但馬国一宮または二宮
県社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 10月17日
地図
粟鹿神社の位置(兵庫県内)
粟鹿神社
粟鹿神社
地図
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鳥居

粟鹿神社(あわがじんじゃ)は、兵庫県朝来市山東町粟鹿にある神社式内社名神大社)、但馬国一宮または二宮。旧社格県社神紋は「抱き茗荷[1]

祭神

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現在の祭神は次の通り[1]

主祭神
配祀神

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 1]・臨時祭 名神祭条[原 2]における祭神の記載は1座。現在の主祭神は上記3柱とする。

歴史

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創建

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創建について『粟鹿大明神元記』では、第11代垂仁天皇の時代に、天美佐利命が荒振る神であるために大彦速命が朝廷に申し出て祀ることとなり、大彦速命の曾孫が「神部直」の氏姓を賜って但馬国造に定められたとする[2]

概史

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古代

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但馬主要3神の神階[3]
出石神 粟鹿神 養父神
845年 無位
→従五位下
無位
→従五位下
無位
→従五位下
868年 従五位上
→正五位下
従五位上
→正五位下
869年 従五位上
→正五位下
874年 正五位下
→正五位上
正五位下
→正五位上
正五位下
→正五位上
神名帳 名神大8座 名神大1座 名神大2座
小3座
一宮制 一宮 二宮 三宮?

天平9年(737年)の『但馬国正税帳』[原 3]では、「朝来郡粟鹿神戸」について、租代は66束2把である旨のほか、調絁2匹4丈5尺を直稲165束で買い取る旨が記されている[2]。なお但馬国の他の有力神社として、出石神社豊岡市、但馬国一宮[4])の神戸では租代435束6把・調絁20匹4丈5尺(直稲1,245束)、養父神社養父市、但馬国三宮?[4])の神戸では租代145束5把・調絁6匹4丈5尺(直稲405束)であった。

新抄格勅符抄大同元年(806年)牒[原 4]では、当時の「粟鹿神」に神戸として但馬国から2戸が充てられている[2]

国史では、「粟鹿神」・「禾鹿神」の神階承和12年(845年[原 5]に無位から従五位下、貞観10年(868年[原 6]に正五位下、貞観16年(874年)[原 7]に正五位上にそれぞれ昇叙された旨が見える[2]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 1]では但馬国朝来郡に「粟鹿神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[2]。また『延喜式』臨時祭 名神祭条[原 2]では、名神祭二百八十五座のうちに粟鹿神社一座が見える。平安時代中期の『和名抄』に見える地名のうちでは、当地は朝来郡粟鹿郷に比定される[2]

中世・近世

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天正年間(1573-1592年)には豊臣秀吉により社領を没収されたのち、慶長元年(1596年)に粟鹿村内から33石余が与えられている[5]

近代以降

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明治維新後、明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列し、明治12年(1879年)には県社に昇格した[5]

1999-2004年度(平成11-15年度)には境内付近(粟鹿遺跡)において春日和田山道路(北近畿豊岡自動車道)建設に伴う発掘調査が実施され、粟鹿神社関連と見られる古代の公的施設(着到殿か)や中世の石敷参道が検出されている[6]

神階

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  • 承和12年(845年)7月16日、無位から従五位下(『続日本後紀』)[原 5] - 表記は「粟鹿神」。
  • 貞観10年(868年)12月27日、従五位上から正五位下(『日本三代実録』)[原 6] - 表記は「粟鹿神」。
  • 貞観16年(874年)3月14日、正五位下から正五位上(『日本三代実録』)[原 7] - 表記は「禾鹿神」。

境内

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境内
社殿

主要社殿のうち本殿は、明治13年(1880年)の造営。桁行三間・梁間二間の流造である。本殿前に接続する拝殿は、桁行四間・梁間三間である[5]。本殿裏には小丘があり、神社側では「御陵」・「神墓」・「御塚」として日子坐王の墓と伝える[5][2][1]。小丘の周囲には空濠のような地形も認められるが、未調査のため古墳であるかは詳らかでない[5]

神域を画する塀には南北に勅使門・日の出門が開く。北の勅使門は、造営年代は詳らかでないが、元々は勅使が出入りするための門であると伝える(文献上では4回の勅使参向が知られる)。切妻造の四脚門で、屋根はかつて檜皮葺であったが、現在は銅板葺に改められている。主にケヤキ材により、柱上組物・三斗詰組・海老虹梁・木鼻など全体的に唐様の手法が認められるが、本柱からの挿し肘木には天竺様も認められる。境内の建物の多くが失われたなかで、災禍を免れて往時の面影を残す貴重な建物とされる。朝来市指定有形文化財に指定されている[7][8]

勅使門の南の日の出門(随身門)は、随身門の外側には随身像1対が、内側には狛犬1対が安置されている。随身像・狛犬はそれぞれ朝来市指定有形文化財に指定されている[7]

また境内の樹叢は、朝来市指定天然記念物に指定されている[7]

摂末社

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摂末社は、境内社6社・境外社3社の計9社[1]

境内社

境外摂社

祭事

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文化財

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朝来市指定文化財

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  • 有形文化財
    • 粟鹿神社勅使門(建造物)
      造営年代不明。1972年(昭和47年)4月1日指定[7]
    • 粟鹿神社木造著色随身倚像(彫刻)
      江戸時代初期頃の作。1対2体で、寄木造による。2011年(平成23年)3月16日指定[7][9]
    • 粟鹿神社木造著色狛犬像(彫刻)
      江戸時代頃の作。1対2体で、寄木造による。吽形像は角を有する。2011年(平成23年)3月16日指定[7][10]
  • 天然記念物
    • 粟鹿神社社叢林
      1979年(昭和54年)10月1日指定[7]

現地情報

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所在地

交通アクセス

脚注

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原典

  1. ^ a b 『延喜式』巻10(神名下)但馬国朝来郡条。
  2. ^ a b 『延喜式』巻3(臨時祭)名神祭条(神道・神社史料集成参照)。
  3. ^ 『正倉院文書』正集36 天平9年(737年)『但馬国正税帳』(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ 『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ a b 『続日本後紀』承和12年(845年)7月辛酉(16日)条(神道・神社史料集成参照)。
  6. ^ a b 『日本三代実録』貞観10年(868年)12月27日条(神道・神社史料集成参照)。
  7. ^ a b 『日本三代実録』貞観16年(874年)3月14日条(神道・神社史料集成参照)。

出典

  1. ^ a b c d 神社由緒書。
  2. ^ a b c d e f g 粟鹿神社(平凡社) 1999.
  3. ^ 神道・神社史料集成.
  4. ^ a b 中世諸国一宮制 2000, pp. 406–408.
  5. ^ a b c d e 粟鹿神社(式内社) 1984.
  6. ^ 粟鹿遺跡 2007.
  7. ^ a b c d e f g 朝来市の文化財 2013.
  8. ^ 粟鹿神社勅使門 説明板(朝来市教育委員会、2012年設置)。
  9. ^ 粟鹿神社木造著色随身倚像 説明板(朝来市教育委員会、2011年設置)。
  10. ^ 粟鹿神社木造著色狛犬像 説明板(朝来市教育委員会、2011年設置)。

参考文献・サイト

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  • 神社由緒書
  • 境内説明板

書籍

  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 是澤恭三「粟鹿神社」『国史大辞典吉川弘文館 
    • 「粟鹿神社」『日本歴史地名大系 29-1 兵庫県の地名 I』平凡社、1999年。ISBN 4582490603 
  • その他

サイト

関連項目

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外部リンク

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  • 粟鹿神社 - 兵庫県神社庁
  • 粟鹿神社 - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」