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添田知義

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添田知義

添田 知義(そえだ ともよし、1854年7月15日嘉永7年6月21日[1]) - 1912年大正元年)10月12日[1][2])は、明治時代の政治家自由民権運動家衆議院議員(2期)。

経歴

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武蔵国橘樹郡市場村(神奈川県橘樹郡町田村、潮田町鶴見町を経て現横浜市鶴見区)に生まれる[1]。添田知通の長男[1]1866年(慶応2年)上京し[3]1868年(明治元年)儒家・柳田貞亮に学ぶ[1]。名主役、戸長、村用掛を経て、1876年(明治9年)第四区学区取締兼医務取締役、1879年(明治12年)橘樹郡市場村・菅沢村・矢向村・江ヶ崎村戸長となる[1]。同年、自由民権運動家の河合平蔵を知り、橘樹郡長の松尾豊材が主宰する郡親睦会幹事を務めた[1]1889年(明治22年)には神奈川県会議員に当選し、1893年(明治26年)まで務めた[1]。ほか、町田村長、橘樹郡会議員、同議長などを務めた[2]

1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から無所属で出馬し当選[2]。つづく第8回総選挙でも当選し、衆議院議員を2期務めた[2]1910年(明治43年)多摩川洪水の際には、「東京府・神奈川県町村区域変更ニ関スル請願書」を提出し、1912年(明治45年)4月、府県境界変更の法が施行された[1]

親族

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  • 父:添田知通(市場村名主、川崎宿38村総代、寄場組合53村総代)[1]

脚注

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参考文献

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