源高実
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 永承元年(1046年) |
死没 | 嘉承元年5月23日(1106年6月26日) |
別名 | 正字:高實 |
官位 | 正四位上、阿波守 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:源高房、母:大江定経の娘 |
兄弟 | 高実、清実、家実、源道良室 |
妻 | 藤原憲房の娘 |
子 | 実房 |
源 高実(みなもと の たかざね)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。醍醐源氏、但馬守・源高房の長男。官位は正四位上・中宮亮。
経歴
[編集]初め、後冷泉天皇の蔵人を務める。白河朝にて、伯耆守・中宮大進を歴任したのち、承暦4年(1080年)越前守に転じる。越前守在任中の応徳3年(1086年)に越前国大野郡牛原荘荒地200余町を醍醐寺円光院に寄進している。また、同年11月に堀河天皇の即位儀において、高実は右大将代を務めた。同年12月に弟の清実に国司職を譲っている。
白河院政期に入ると、寛治元年(1087年)に院昇殿を聴され、寛治2年(1088年)従四位下、寛治6年(1092年)従四位上と昇進を重ねた。承徳2年(1098年)中宮・篤子内親王の中宮亮に任ぜられる一方で、康和4年(1102年)ごろ讃岐守、長治元年(1104年)ごろ阿波守に任ぜられるなど、受領を歴任。この間、康和5年(1103年)正四位下に叙せられている。
のち、中宮御堂の造営を命ぜられたが、嘉承元年(1106年)5月23日に造営の途中で卒去。享年61。最終官位は正四位上中宮亮兼阿波守。
官歴
[編集]- 承暦元年(1077年) 12月5日:前伯耆守[1]
- 承暦3年(1079年) 2月19日:見大進[2]
- 承暦4年(1080年) 5月11日:見越前守[1]
- 応徳3年(1086年) 12月:辞越前守[3]
- 寛治元年(1087年) 4月7日:院昇殿[4]
- 寛治2年(1088年) 正月19日:従四位下(令子内親王職事)[5]
- 寛治6年(1092年) 正月5日:従四位上(渡御家賞)[6]
- 承徳2年(1098年) 4月2日:中宮亮(中宮・篤子内親王)[5]
- 康和4年(1102年) 正月20日:見讃岐守[5]
- 康和5年(1103年) 正月6日:正四位下[5]
- 長治元年(1104年) 10月14日:阿波守[5]
- 時期不詳:正四位上[7]
- 嘉承元年(1106年) 5月23日(正四位上中宮亮兼阿波守)[8][5]