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藤原実明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 実明
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 仁平3年(1153年
死没 貞応2年8月16日1223年9月12日
官位 従二位参議
主君 二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原公通、母:藤原通基の娘
兄弟 実宗実明、公性、藤原清通
玄修の娘
公雅公綱明暹、明辨、公遍、公縁、公真
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藤原 実明(ふじわら の さねあきら、旧字体藤󠄁原 實明󠄁)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家閑院流権大納言藤原公通の次男。官位従二位参議

経歴

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応保3年(1163年従五位下叙爵永万2年(1166年)に侍従に任ぜられ、仁安3年(1168年)従五位上に叙せられた。嘉応2年(1170年土佐介を兼任。

承安3年(1173年正五位下に叙せられる。治承3年(1179年右近衛少将に任ぜられ、治承4年(1180年周防介を兼ねた。養和元年11月(1182年1月)従四位下に進み、寿永元年(1182年)には従四位上に叙せられる。寿永2年(1183年昇殿を聴される。また、後白河法皇より閏10月6日、紀伊国日高郡の荘園・高家荘預職に補されている[1]。寿永3年(1184年正四位下美濃守に叙任された。

元暦2年(1185年)正月、藤原季範木工頭任官の替わりに備前守に任じ、6月には源雅賢の解官により播磨守に任ぜられた。文治2年12月(1187年1月)右近衛中将に転じて、建久2年(1191年蔵人頭に補任。建久4年12月(1194年1月)参議に任ぜられて公卿に列した。建久5年(1194年備後権守を兼任。建久6年(1195年)には兄・実宗の譲りで従三位に叙せられた。

建久10年(1199年正三位伊予権守に叙任される。正治2年(1200年)に参議を辞退して民部卿に遷任。元久2年(1205年)に民部卿を辞任して従二位に叙せられた。承元3年(1209年)出家して、貞応2年(1223年)8月16日、71歳で薨去。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に随う。

  • 応保3年(1163年)正月5日:従五位下(太皇太后仁平二年御給)。
  • 永万2年(1166年)8月21日:侍従。
  • 仁安3年(1168年)正月6日:従五位上(上西門院当年御給)。
  • 嘉応2年(1170年)正月18日:土佐介を兼ぬ。
  • 承安3年(1173年
    • 正月6日:正五位下(建春門院当年御給)。
    • 6月9日:復任。
  • 治承3年(1179年)10月10日:右近衛少将。
  • 治承4年(1180年)正月28日:周防介を兼ぬ。
  • 養和元年11月28日(1182年1月4日):従四位下。少將如元。
  • 寿永元年(1182年)11月28日:従四位上(大嘗會叙位。院臨時御給)。
  • 寿永2年(1183年)8月20日:昇殿。
  • 寿永3年(1184年
    • 正月6日:正四位下(院当年御給)。
    • 9月18日:美濃守を兼ぬ(院分。源義廣解官替)。少將如元。
  • 元暦2年(1185年
    • 正月20日:備前守(院分。季範任木工頭替)。
    • 6月29日:播磨守を兼ぬ(院分。雅賢解官替)。
  • 文治2年12月15日(1187年1月26日):右近衛中将に転ず。守如元。
  • 建久2年(1191年)10月26日:蔵人頭。
  • 建久4年12月9日(1194年1月3日):参議。
  • 建久5年(1194年)正月30日:備後権守を兼ぬ。
  • 建久6年(1195年)4月7日:従三位(東大寺供養。実宗譲)。
  • 建久9年12月28日(1199年1月26日):復任(母)。
  • 建久10年(1199年
    • 正月7日:正三位(臨時加叙)。
    • 3月23日:伊予権守を兼ぬ。
  • 正治2年(1200年)4月1日:民部卿に遷り、参議を辞す。
  • 元久2年(1205年)正月5日:民部卿を辞し、従二位に叙す。
  • 承元3年(1209年)7月7日:出家。
  • 貞応2年(1223年)8月16日:薨去。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『後白河院庁下文写』寿永3年閏10月6日。