コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

西園寺実長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西園寺実長
時代 南北朝時代
生誕 建武元年(1334年
死没 文和4年/正平10年2月28日1355年4月11日)?
改名 実茂→実長
別名 竹林院
官位 正三位権中納言北朝[1]大納言[2]
主君 後醍醐天皇光明天皇崇光天皇後村上天皇
氏族 西園寺家
父母 父:西園寺公重
兄弟 実長女子公俊?
洞院貞子?(洞院公泰の娘)
公長?
テンプレートを表示

西園寺 実長(さいおんじ さねなが)は、南北朝時代公卿太政大臣西園寺公重の子。官位正三位権中納言北朝)。

経歴

[編集]

建武2年(1335年)11月に叙爵。初名は実茂(さねしげ)。建武5年(1338年従五位上侍従に叙任される。広義門院からの庇護があったためか、官位は累進し、康永3年(1344年)1月従三位に叙されて公卿に列した。貞和4年(1348年)4月参議となり、10月春宮権大夫を兼任(春宮直仁親王)。貞和5年(1349年)1月正三位へ進み、9月権中納言に任じられる。正平6年(1351年)12月の正平一統に際しては南朝賀名生に参候した。同7年(1352年)2月崇光上皇院別当に補され、後村上天皇住吉行幸に供奉するが、閏2月直仁親王が八幡へ移されるに及んで権大夫は解任された。文和2年(1353年)9月父・公重が京都から没落する矢先に職を止められ、文和4年/正平10年(1355年2月28日河内国天野で薨去。享年22。妻は同じく南朝に仕えた洞院公泰の娘であり、夫の薨逝に伴って遁世した。

なお、『実隆公記』によれば、「竹林院大納言ママ実長卿」の筆写にかかる『尚書』1巻が存したという[3]

また、正平19年(1364年)には、西園寺氏の人間(石野弥栄はこれを公重の息子・西園寺実長のことであると推定している)が伊予西園寺氏の家督を相続しているが、実長との関係は不明である[2]

系譜

[編集]
  • 父:西園寺公重(1317-1367)
  • 母:不詳
  • 妻:洞院貞子 - 洞院公泰の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:西園寺公長?

脚注

[編集]
  1. ^ 南朝公卿補任』によれば、正平9年(1354年)2月従二位に叙されたという。
  2. ^ a b 石野弥栄「南北朝・室町朝の伊予西園寺氏--公家大名成立の前提」『國學院雜誌』第88巻第10号、1987年。 
  3. ^ 実隆公記明応7年4月9日条

参考文献

[編集]