王湛
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王湛(おう たん、249年 - 295年)は、中国の西晋の官僚。字は処沖。本貫は太原郡晋陽県。
経歴
[編集]魏の司空の王昶の子として生まれた。28歳のとき、はじめて出仕した[1]。秦王文学・太子洗馬・尚書郎・太子中庶子を歴任し、汝南国内史として出向した。兄の王渾が呉を滅ぼすと、王湛は関内侯の位を受けた[2]。元康5年(295年)、死去した。享年は47。
逸話
[編集]- 王湛の身長は7尺8寸あり、龍のような高い額と大きな鼻の持ち主であった。
- 王湛は寡黙で、与えた恩恵を隠して人に知らせなかったため、兄弟や一族たちは王湛のことを知能が低いものとみなした。ただひとり父の王昶だけは王湛の特異性を認めていた。父が死去すると、王湛は墓所に住み込んだ。喪が明けても、家の門を閉ざして、人づきあいをせず、恬淡としていた。
- 兄の子の王済は王湛のことを軽んじていた。王済が王湛を訪ねたとき、床に『周易』が転がっているのを見つけた。王済が「叔父上はこれを何に使うのですか」と訊ねると、王湛は「身体の中が良くないときに、見るだけだ」と答えた。王済が説明を求めると、王湛の説く易の道理は微妙かつ奇趣があり、王済の聞いたことのないものであった。王済は衝撃を受けて、態度を改め、連日連夜とどまって語り合った。「家に名士がいたのに、30年も知らなかったのは、済の罪である」と嘆いていった。王済が辞去するにあたって、王湛は門まで送った。
- 王済が騎乗の難しい馬を持っていたため、「叔父上は馬に乗るのがお好きですか」と王湛に訊ねた。王湛は「それも好きだよ」と答えた。王湛をこの馬に乗せてみると、姿勢も鞭さばきも優れていて、乗馬を得意とする者も遜色ないほどであった。また王済の愛馬について「この馬は速いけれども、力が弱いので苦行には耐えられない。近頃見た督郵の馬は勝っているが、ただ糧秣が足りていないだけだ」と言った。王済が試しに督郵の馬を自分の馬とともに養ってみた。王湛はまた督郵の馬について「この馬は重荷の背負いかたを知っているので、平路と変わりはないだろう」と言った。そこで重荷を背負わせて試してみたところ、王済の馬は躓いたが、督郵の馬はいつもどおりであった。王済はますます感心し、家に帰って「済は始めてひとりの叔父を得ました。すなわち済以上の人です」と父の王渾に報告した。
- 武帝もまた王湛を愚か者とみなしていたため、王済と会うたびに、「卿の家の愚かな叔父はまだ死なないのかね」といってからかった。王済はいつも答えなかった。王済が王湛の優れたところを知るようになって、武帝がまたいつものように訊ねると、王済は「臣の叔父は愚か者ではありません」と答え、その美点を讃えてみせた。武帝が「誰に匹敵するか」と訊ねると、王済は「山濤以下で、魏舒以上です」と答えた。当時の人は「王湛は上に山濤に及ばないが、下に魏舒と比べるには余裕がある」と評した。王湛はこれを聞いて「わたしを季氏と孟氏の間で処遇しよう[3]というのかね」といった。
妻子
[編集]妻
[編集]- 郝氏(太原の郝普の娘)[4]
子
[編集]脚注
[編集]- ^ 『世説新語』賞誉篇
- ^ 『晋書』王渾伝
- ^ 斉の景公が孔子を上卿の季氏と下卿の孟氏の中間で処遇しようと発言した故事の引用。『論語』微子篇にみえる。
- ^ 『世説新語』賢媛篇:郝氏譜曰:「普字道匡,太原襄城人。仕至洛陽太守。」
伝記資料
[編集]- 『晋書』巻75 列伝第45