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竺道潜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竺道潜
太康7年 - 寧康2年
286年 - 374年
生地 琅邪郡
没地 会稽郡剡山
寺院 瓦官寺、栖光寺
劉元真
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竺道潜(りゅうどうせん)は、中国東晋は「法深」。琅邪の人。劉元真を師とする[1]

生涯

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本姓は王氏。王敦の弟であり、王導の従兄弟で名門出身であった。18歳で出家。威風堂々とした容貌で、24歳のとき『法華経』や『摩訶般若波羅蜜経』を講じ、すでに深い理解を示して弁舌巧みだった[1]元帝明帝・王導・庾亮などは道潜の風徳を敬愛し、道潜はつねにをつけて殿中に入ることができた[1]。後に世を避けて会稽剡山に隠れたが、その跡を追うものが山門旅舎を結び、道潜はその人々に対して、悠々として講席を設けること30余年、『方等経』や老荘を説いた。哀帝が勅使を遣わして道潜を招いたため、宮中で『摩訶般若波羅蜜経』を講じた。しかし、道潜はこのような生活を楽しまず、剡山に帰り、余命を終えた[1]

考証

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高句麗小獣林王2年(372年)、前秦苻堅が使節とともに僧の順道を遣し、仏像経文を齎し、その2年後に阿道が来て、翌年に省門寺伊弗蘭寺が創建されたことを以って高句麗仏教の最初とするが、慧皎が撰した『高僧伝』巻四・道潜(法深)伝に、支遁高麗道人に与えた「与高麗道人書」が引かれ、道潜の高徳を讃えている[2]。支遁は、太和元年(366年)に死亡しており、支遁が高麗道人に「与高麗道人書」を与えた時期はそれ以前となる。したがって、高麗道人が高句麗の仏教徒であるならば、順道が高句麗に来たとされる小獣林王二年より6年以前であり、順道、阿道の高句麗教化以前の高句麗と中国仏教との接触を示唆する。しかしながら、『三国遺事』を撰した一然は、『三国遺事』巻三興法篇「(順)道公之次。亦有法深義淵曇嚴之流。相繼而興教。𤋦古傳無文。今亦不敢編次。詳見僧傳」としており、高麗道人を法深(道潜)に比定している[2]

脚注

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  1. ^ a b c d 玉城康四郎『竺道潜の交友とその境地』日本印度学仏教学会〈印度學佛教學研究 18 (2)〉、1970年、442-444頁。 
  2. ^ a b 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、39-40頁。