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ムーサー・カーズィム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムーサー・カーズィム
書道 ムーサー・カーズィム
生誕 745年 11月10日
ヒジャーズ マディーナ
死没 799年 9月4日
バグダード
死因
活動期間 35年
著名な実績 シーア派の7番目のイマーム。 イスラム教の預言者ムハンマドの家族から。
後任者 アリー・リダー
子供 アリー・リダー+20
ジャアファル・サーディク(父親)
ハミダ(母親)
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ムーサー・アル=カーズィム・イブン・ジャアファル・アッ=サーディクアラビア語: الإمام موسى الكاظم ابن جعفر الصادق al-Imām Mūsá al-Kāẓim ibn Ja`far al-Ṣādiq、745年11月10日 - 799年9月4日)は、シーア派十二イマーム派第7代イマームマディーナで生まれ、バグダードに没した。

生涯

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ムーサー・カーズィムは先代ジャアファル・サーディクの子で、母はハミーダと伝えられる。

ムーサーの生まれたのはウマイヤ朝アッバース朝の争いのさなかのころであった。21歳のとき、シーア派イマーム派の多数派の支持を得て、アッバース朝の手にかかって没した父の後を継ぎ、イマームとなった。しかし、ムーサーのイマーム継承は必ずしも疑問の余地がまったくないものではなかった。それは彼がジャアファル・サーディクの長男ではなかったことである。長男のイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちは分派して新しい一派を立てた。これが「イスマーイール派」と称される人びとである。これに対し、ムーサー・カーズィムとその子孫の継承を支持する人びとを「十二イマーム派」と呼称する。

ムーサー・カーズィムはアッバース朝の第5代カリフハールーン・アッ=ラシードによって獄に下され、数年後には毒殺された。遺骸はバグダード近郊カーズィマインに葬られている。墓廟はムーサーの孫にあたる第9代イマームのムハンマド・タキーの墓廟と隣接しており、シーア派聖地のひとつとなっている。

系図

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アリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バーギル
 
ザイド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャアファル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イスマーイール
 
ムーサー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リダー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

カーズィム廟

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カージマイン・モスク(en)は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。金色をした銅板ドームと美しい彩釉タイルの門で知られ、ムーサー・カーズィム(位765年799年)および孫の第9代ムハンマド・タキー(位818年835年)が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名がある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀ガージャール朝ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれ、現在にいたっている[1]。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している[1]

イマームの伝承

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七代目イマーム・カーズィム(彼の上に平安あれ)がこう言った。

「ムスリム信徒を幸福にさせたときは、まずアッラー、二番目に預言者、三番目にわれわれ(アフルル・バイト)を喜ばせているのである」[2]

「現世は海水に似ている。喉が渇いている人がどれだけその水を飲んでも、喉の渇きは増すばかりで、水が彼を殺してしまう」 [3]

補説

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1979年イラン・イスラーム革命の最高指導者であったホメイニ(ルーホッラー・ホメイニー、1902年-1989年)は、みずからムーサー・カーズィムの子孫であると称していた。

脚注

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  1. ^ a b 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」 (PDF)
  2. ^ 『ビハール・アル=アンワール』74巻、314頁。 
  3. ^ 『ビハール・アル=アンワール』78巻、311頁。 

関連項目

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先代
ジャアファル・サーディク
12イマーム派イマーム
765年 - 799年
次代
アリー・リダー