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菅原是善

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
菅原 是善
菅原是善『前賢故実
時代 平安時代前期
生誕 弘仁3年(812年
死没 元慶4年8月30日880年10月11日
墓所 京都府京都市南区吉祥院高畑町59香泉寺
官位 従三位参議
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇
氏族 菅原氏
父母 父:菅原清公
兄弟 清成興善忠臣善主是善是算康子
伴氏(伴真成の娘)
道善道仲道真類子
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菅原是善邸跡、道真の産湯井戸と言われている井戸が現存する、京都市上京区

菅原 是善(すがわら の これよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族文人従三位菅原清公の四男。官位は従三位・参議

経歴

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幼い頃から聡明で才知があり、弘仁年間の末に11歳にしてに召されて殿上に侍し、常に嵯峨天皇の前で書を読み詩を賦したという。

承和2年(835年文章得業生となり、承和6年(839年対策に及第して従六位下から正六位上と三階級の加叙を受ける。大学允/助大内記を経て、承和11年(844年従五位下叙爵。承和12年(845年文章博士に任ぜられる。のち文章博士を務める傍らで越後讃岐権介と地方官を兼ね、皇太子・道康親王の東宮学士にもなった。

嘉祥3年(850年)道康親王の即位文徳天皇)に伴い二階級昇進して正五位下に叙せられる。引き続き文章博士を務める一方で、大学頭左京大夫加賀権守・美作権守・伊勢守・備前権守を兼ねた。また、この間の斉衡2年(855年)には従四位下に叙せられている。

清和朝に入ると文章博士に播磨権守を兼ね、貞観2年(860年)には従四位上に昇叙された。のち、弾正大弼刑部卿近江権守・伊予権守を経て、貞観12年(870年式部大輔に任官する。貞観14年(872年)には参議に任じられて公卿に列し、議政官として勘解由長官・刑部卿などを兼任した。貞観15年(873年正四位下元慶3年(879年従三位。元慶4年(880年)8月30日薨去。享年69。最終官位は参議従三位行刑部卿。

文徳清和両天皇の侍読となって『文選』や『漢書』の進講を行ったり、内記として起草した詔勅や願文が多く残されている。都良香らと『日本文徳天皇実録』を撰し、『貞観格式』の編纂にも参画、また自ら『東宮切韻』『銀牓輪律』『集韻律詩』『会昌分類集』などを撰している。家集に『菅相公集』がある。

人物

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当代随一の文人として、詩家の宗匠小野篁あるいは在朝の通儒春澄善縄大江音人と親交があったという。上卿良吏・儒者詞人の多くを弟子としていた。俗世間の事柄に興味が薄く、世間を忘れたように風月を観賞してを吟じた。仏道を崇めて人々を慈しみ、孝行は天に至るほどで、殺生も好まなかった。臨終の際、初冬の季節に自らの法要を営むことのみ一言し、他には何も語らなかったという。[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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旧跡

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墓所

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京都市南区吉祥院高畑町にある香泉寺の境内に、是善のものとされる墓があり、本堂には是善の坐像が安置されている。

神社

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是善を主祭神として祀る神社も存在する。

参考文献

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脚注

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出典

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  1. ^ 日本三代実録』元慶4年8月30日条
  2. ^ a b c d e f g h i j 公卿補任