小野好古
小野好古(菊池容斎画) | |
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 元慶8年(884年) |
死没 | 康保5年2月14日(968年3月20日) |
別名 | 野大弐 |
官位 | 従三位・参議 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇 |
氏族 | 小野氏 |
父母 | 父:小野葛絃 |
兄弟 | 好古、道風 |
子 | 永樹、千古、女子、大蔵春実室 |
特記 事項 | 一説には小野小町の従弟 |
小野 好古(おの の よしふる)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の次男。弟に三蹟の一人小野道風がいる。異名は「野大弐」。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]讃岐権掾・春宮権少進を経て、延喜22年(922年)従五位下・右京亮に叙任される。のち、醍醐朝後期に大蔵少輔・中宮大進を務める。
朱雀朝に入ると、延長8年(930年)右衛門権佐、承平8年(938年)右近衛少将と武官を歴任し、承平2年(932年)従五位上、天慶2年(939年)正五位下、天慶4年(941年)従四位下と昇進する。この間、天慶2年(939年)に発生した藤原純友の乱を鎮圧するために、天慶3年(940年)追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州へ下向。追捕使判官・藤原慶幸、主典・大蔵春実らと共に、大宰府を襲撃した藤原純友軍を博多津にて撃退している。天慶5年(942年)文官の左中弁に遷るが、天慶8年(945年)大宰大弐として地方官に転じた。
村上朝初頭の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列すが、引き続き大宰大弐を兼帯し天暦3年(949年)末までこれを務めた。その後は議政官として讃岐権守・備中権守などの地方官を兼帯し、天徳2年(958年)正四位下に昇叙されている。天徳4年(960年)77歳にして大宰大弐に再任され、応和2年(962年)従三位に至る。
冷泉朝初頭の康保4年(967年)7月7日に致仕する。翌康保5年(968年)2月14日薨去。享年85。最終官位は致仕参議従三位大宰大弐。
人物
[編集]勅撰歌人として、『後撰和歌集』(4首)『拾遺和歌集』(2首)に和歌作品が入首。また、大宰府にて曲水の宴を始めたとも伝えられる。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 延喜12年(912年) 3月27日:讃岐権掾
- 延喜17年(917年) 正月29日:春宮権少進(春宮・保明親王)
- 延喜22年(922年) 正月7日:従五位下。5月26日:右京亮
- 延長2年(924年) 8月9日:大蔵少輔
- 延長3年(925年) 10月14日:中宮大進(中宮・藤原穏子)
- 延長8年(930年) 11月16日:右衛門権佐
- 承平元年(931年) 閏5月11日:昇殿
- 承平2年(932年) 11月16日:従五位上
- 承平5年(935年) 2月23日:備前権介
- 承平6年(936年) 正月29日:中宮権亮(中宮・藤原穏子)
- 承平8年(938年) 3月26日:右近衛少将、中宮権亮備前権介如元
- 天慶2年(939年) 正月7日:正五位下。2月1日:兼近江権介
- 天慶3年(940年) 正月:兼追捕凶賊使
- 天慶4年(941年) 5月7日:従四位下。8月18日:昇殿
- 天慶5年(942年) 3月28日:左中弁。12月:備前(権)守
- 天慶7年(944年) 2月21日:兼山城守
- 天慶8年(945年) 10月14日[1]:大宰大弐
- 天暦元年(947年) 4月26日:参議。5月2日:太宰大弐如元。12月25日:任大弐(復任)
- 天暦4年(950年) 正月25日?:辞太宰大弐
- 天暦7年(953年) 正月7日:従四位上。正月27日:兼讃岐権守
- 天暦9年(955年) 9月17日:兼備中権守
- 天徳2年(958年) 正月7日:正四位下。閏7月18日:兼弾正大弼
- 天徳3年(959年) 7月17日:兼左大弁
- 天徳4年(960年) 正月24日:兼備中守。4月23日:任大宰大弐、止弁弼等
- 応和2年(962年) 正月7日:従三位
- 康保2年(965年) 日付不詳:止大弐
- 康保4年(967年) 7月7日:致仕(参議従三位大宰大弐)
- 康保5年(968年) 2月14日:薨去