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橘恒平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橘恒平
時代 平安時代中期
生誕 延喜22年(922年
死没 永観元年11月15日983年12月21日
別名 旧字:恆平
官位 正四位下参議
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘敏行
母:定国王娘・和子女王
兄弟 定平、広平、恒平、藤原尹風室
増賀[1]藤原敦信室?
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橘 恒平(たちばな の つねひら)は、平安時代中期の公卿右近衛少将・橘敏行の三男。官位正四位下参議

経歴

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朱雀朝天慶7年(944年)帯刀長に任ぜられる。天慶9年(946年村上天皇践祚に伴って右近衛将監任ぜられると、天暦2年(948年播磨権大掾を経て、天暦4年(950年従五位下叙爵する。

天暦5年(951年越前介に任ぜられ地方官に遷るが、天暦10年(956年玄蕃頭として京官に復す。応和元年(961年豊後守に転じると、康保3年(966年)治国が賞され従五位上、康保4年(967年尾張守天禄3年(972年美濃守と村上・冷泉・円融の三朝にかけて地方官を歴任する。貞元2年(977年)には、正月に再び治国の功労により正五位下に叙せられると、同年3月に関白藤原兼通の閑院第に円融天皇が行幸するとその家司として従四位下に、8月には造宮を賞されて従四位上と、一年に三度の昇叙を受けた。また、同年に近江(権)守に任ぜられると、天元4年(981年)重任されるなど、結局のべ30年近くに亘って五ヶ国の国司を歴任した。また、この間京官の木工頭修理大夫も務めている。

天元4年(981年正四位下に叙せられ、永観元年(983年)11月11日に参議に任ぜられ公卿に列すが、13日に病気により出家し、15日に卒去した。享年62。この常平の死によって、橘氏からの公卿任官は途絶えた[2]

歌人として、貞元2年(977年)8月の左大臣藤原頼忠家歌合に出詠している。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:橘敏行
  • 母:和子女王 - 定国王の娘
  • 妻:不詳

脚注

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  1. ^ a b 名は僧賀とも表記される(『尊卑分脈』)
  2. ^ なお、14世紀に日本の統治機構が二分された南北朝時代において南朝を支えていた楠木氏は橘氏を自称しており、その有力武将だった楠木正儀弘和2年/永徳2年(1382年)に参議へ昇任したことで、実際の血縁関係は不明ながら、形式上は399年ぶりに橘氏からの公卿となった。

参考文献

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