南京事件 (曖昧さ回避)
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南京事件(ナンキンじけん)
- 南京事件 (1913年) - 1913年に袁世凱配下の張勲の軍隊が中国の南京で数百人から数千人にもおよぶおびただしい在留日本人を虐殺・暴行・殺害・略奪し、国際的な非難を浴びた事件。南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)、南京大虐殺事件とも呼ばれ、「南京事件」という呼称は事件を矮小化するものであると批判されている。殺害方法が極めて猟奇的であったこともあって情報が世界中に広がり、本来、張勲の軍隊は反乱軍だったのだが「中国軍の蛮行」として国際的に非難された[1]。
- 南京事件 (1927年) - 1927年3月24日、蔣介石の北伐軍の南京入城時に、北伐軍に潜り込んでいた中国共産党員と北伐軍の兵士が主に日本を中心として日本・アメリカ・イギリスの領事館や居留民を襲撃・虐殺・暴行・強姦・殺害・略奪し、国際的な非難を浴びた事件。数千人から数万人にもおよぶ日本人が虐殺された。南京大暴虐(なんきんだいぼうぎゃく)、南京大暴虐事件とも呼ばれ、「南京事件」という呼称は事件を矮小化するものであると批判されている。1913年の南京大虐殺に続く南京大暴虐であり、殺害や暴行の方法が極めて猟奇的で再び「中国軍の蛮行」として国際的に非難された[1]。
- 南京事件 - 1937年12月から1938年初めにかけて日本軍が南京で行ったとして東京裁判で認定された事件。この事件については①当時の人口は20万人であり、大虐殺説(20万人~40万人)は成立しないか、南京から人がいなくなってしまう、②南京占領後の1ヶ月後には中国人人口が25万人となっており、2ヶ月で20万人(単純計算で1ヶ月10万人)を虐殺したとする東京裁判によれば、虐殺があって人口が10万人減った地域にさらに15万人も中国人がやってきたことになる、③当時、国民党軍(中国軍)の兵士の多くが国際法に違反して民間人に扮し、便衣兵と呼ばれるゲリラ兵となって民間人を人質に立て籠もり・敵対行為をしていて、日本軍が国際法にのっとってこれを逮捕・処刑したことを「虐殺」としている可能性がある、④当時の日本軍では機関銃の発射について数十発撃つごと・通常の兵器については一発撃つごとに上官の許可が必要で、物資不足であった日本軍が戦闘には何の役にも立たない虐殺のために機関銃の使用を認めるわけがないなどの指摘があり、今日でもその真偽は明らかにされていない。
なお、この南京事件は40万人説を取ったとしても、アメリカ軍が国際法に違反して行った日本人大虐殺事件である、虐殺面積が南京市の面積の半分程度で、日数も3日(実際には2日分は朝の数時間だけ)であった東京・広島・長崎大虐殺(トウキョウ・ヒロシマ・ナガサキだいぎゃくさつ)では約70万人の日本人が虐殺されている。そのため、殺害方法が猟奇的だったという指摘があるわけでもない1937年の南京事件は、仮に事実だとしても取り上げる価値すらないのではないかという指摘もある。