評論家
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評論家(ひょうろんか)とは、評論する者のことであり、以下のいずれかあるいは両方を意味する。
- #評価を業とする者のこと。
- #自分で実行しないで他者の行為をあれこれ言う者のこと。
評論を業とする者
歴史
評論は欧米においては「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であったのであり、 日本にも近代になり欧米の「評論」が流入した。やがて「技術的に有用な多くの知見を持つことになった者がそれを社会へ提供・還元するもの」という面が強くなり、評論家の存在が前面に出てくるようになった。
対象、分野、手法
評論家が対象とする事物には特に制限があるわけではなく、文学、政治、経済などあらゆる事物が評論の対象になる。そのため、毎年のように新しい肩書きの評論家が登場してくる。
評論家は多くの場合ある特定の分野だけを評論活動の対象としている。が、思想家や哲学者が、対象を限定せず広く批評・評論活動をすることもしばしばある。
評論の手法は研究対象などによって異なる。
評論家の出自
評論家のほとんどは、その分野の真の意味での専門家(実行者、プロ)ではない。以下のようなケースが多い。
- ある分野での真の専門家となることを目指していたものの、なんらかの事情でなれなくなり、転じてその分野の評論家となることで、その分野との関係を保っている者。
- ある分野の真の専門家であったことがあるが、今ではその世界の実活動から退いている者。
- ジャーナリスト。特にフリーのジャーナリストが自称する場合が多い。
評論家とメディア
評論家にとってマスメディアは必要不可欠の存在である。文字媒体(新聞、雑誌、書籍、インターネットなど)やラジオ、テレビなどのメディア抜きでは、業としての評論家は成り立たない。
またメディアの側も評論家を必要としている。メディアは放送番組や記事、広告としての形式や内容を成立させるために、評論家の知識や信頼感を利用する。また生放送などで台本を用意できない場合、特定の分野について多くの知識を持ち、その知識・経験を踏まえて、解説・意見をアドリブで話す事が出来る評論家は重宝される。また、評論家の解説・意見の責任は基本的には評論家にある。台本を用意しないことで、メディアは責任を回避する事が出来る[1]
特にテレビの場合、評論家は画面の中に居るだけで、一定の信頼感を醸成することが出来る。放送局、番組制作会社にとっては便利な存在である。そのため、昨今ではメディアによって、評論家が粗製濫造されている。
評論家の種類
など
評論家の人名に関しては、Category:評論家から各種評論家のサブカテゴリへ。あるいは、評論家一覧、映画評論家一覧、また教育関係人物一覧(教育評論家)の項目を参照。
評論家の肩書き
評論家という肩書きは自称にすぎない。例えば政治評論家が、「政治アナリスト」と名乗っても問題はない。また特定の分野でのみ使われる別名もある。例えば経済評論家は、しばしば「エコノミスト」を自称する。
評論家は文化人と総称される場合がある。この場合、コメンテーターやコラムニストとの区別は難しくなる。「論客」や「オピニオンリーダー」として紹介される場合もある。
文学評論家と作家
文芸評論家が作家に準ずる存在として扱われる場合がある。評論文それ自体が後に " 文学作品 " として扱われることもある。
ほとんどの分野では、(ある段階では言語を活用するものの)、最終的には、なんらかの物質の次元での現実化、実証、あるいは身体を使っての実行というものが重んじられている。 ところが、文学の分野では、生み出されるものが、文字や言葉、あるいは観念ばかりである。つまり、他の分野のようには対象となる作品と評論の境界がはっきりしているわけではないからである。
だが、他の分野で真の専門家と評論家が同等には扱われないように、やはり文芸評論家は作家等とは同等には扱われない場合のほうが多い。
評論家と批評家
「評論家」と「批評家」の区別について、議論がある。(参照:加藤典洋 『僕が批評家になったわけ』 など)。
評論活動の問題点
評論はその分野の発展に寄与することもある。一方で評論がその分野の発展を阻害する場合もある。
また、評論家の言動が名誉毀損に当たるなどとされ、法律問題や、訴訟にまで発展する場合もある。
自分で実行しないで他者の行為をあれこれ言う者
通念
通常、評論家は以下のような観念と結びつけられて理解されることが多い。
- 実行力の欠如
- オーナーシップの欠如
- 責任感の欠如
- 傍観者的な姿勢
このような態度をシニカルに描いた小説として、筒井康隆の「俗物図鑑」(各種事象の“評論家”が登場)がある。
評論家の問題点
評論家の中には上記の記載の事柄以外にも
- 評価が、自己中心な発想(ただ短に自分が好き、嫌い)が前提で物事を評価してしまっている。
- 差別とも取れる発言やただの悪口になってしまっている。
- きっちり調べたわけではない。
- 全く的をいていない発言。
- 理論防御の為か、知識人ぶりたいのか、世間一般的に使われない用語や英語を頻繁に用い、回りくどい言いまわしで、内容自体がうすっぺらい(結局たいしたことは、言っていない。)場合も多い。
- 他人を評論するわりには自分が批判されるのは嫌がる場合もある。
などが上げられる。また、評論家同士による批判も多々起こりうる。
脚注
- ^ 2007年10月の亀田・内藤戦の報道姿勢への批判に関して、TBS広報部は「実況は用意した原稿を読んでいるのではなく、アナウンサー個人がその場で行うもの。局として見解を示すべきことではない」と回答している。