ノート:疑似科学
どこまでが入るか
統計結果から構築した現象論(風水や占いのようなもの)や得た経験論(血液型性格診断など)に過ぎないもの、概念を定義する単語に過ぎないもの(超能力)、ポールシフトなど現象的には起こり得る単語まで疑似科学に分類されている!ポールシフトやUFOや永久機関などは用いられ方がまずいだけでは無いのか?気功や風水といったものも科学は自称していないはずだが?単にマスコミがやたら取り上げるだけで。本職の人の意識を重視すべきだ!明らかにレッテル貼りの場として極めて広義的に恣意的にこの項目を編集している人間がいる! この項目に載せるなら、なぜこの項目にそれが分類されるのか理由もしっかりと併記(コメントアウトせずに)すべきだ! それが出来ないものは消すべき!というか一旦この項目は全て消して、そういうやり方で一から作り直すべきでしょう! 反証も示さずに槍玉にあげるのってそれこそ非科学的です!--61.7.48.45 2007年2月2日 (金) 00:43 (UTC)
船井系の「波動」、植物さん、ナチュラルダイオード、イルカ・チャネリング、タキオンパワー、ギャンブルうはうはの霊石の類、骨を刺激してグングン背が伸びる・・・など
- そういうのも全部書いちゃっていいでしょう。100匹目のサルなんてのもありましたねSampo 05:00 2003年12月8日 (UTC)
一定の歯止めが必要かと。 まず、唱えている本人が「科学」だと言っている必要があるかと。Xeon
- 「科学」と断言していなくとも、巧妙に「科学的である」かのように匂わせて、パンピー騙しているようなのは入れるでしょ。追求されたら逃げるんだろうけど。
項目として入れるのには賛成ですが、あくまでも現時点でそうみなされる場合もあるという中立的立場が必要だと思います。理論構成として矛盾があるものも多いですが、現象としては存在するものも中にはあるのも事実です。(理論構築の問題)
ふと、反証可能性の部分を見てて思ったのは確率的な要素を含む事象は科学にはなじまないってことなのかしらん?218.131.58.12 2004年9月19日 (日) 12:46 (UTC)
- 確率的なものなら統計学とかの教えを利用して何らかの証明は可能かと。医学はそれでやってます。超具体的にはp<0.05で有意、とか。参照:根拠に基づいた医療Naruto 2004年9月28日 (火) 15:05 (UTC)
既存のオカルトが疑似科学に入るかどうかという点ですが、既存のオカルトを一見科学的であるかの様に説明すると疑似科学になる訳ですよね。だから、既存のオカルトにおいて「これは疑似科学だ」と明確に分けられるのは少ないですね。 ただ、そのオカルトを語るときの語り口によって疑似科学か否かが分かれる訳です。 注意しないといけないのが、そのオカルトが独自の体系と理論を持っているからといってそれが「疑似科学」になるわけじゃないんですよね。陰陽五行説なんてだれも(疑似)科学だとは思わない。でも独自の理論と体系は持っています。
個人的には「非科学(的手法)が自らを、科学(的手法)であると誤認させ、科学に対する信用利用する」のが疑似科学だと思っていますが。
「迷信やオカルトも類似の概念であるが、それが科学であると誤解されるような要因を持ち合わせない。」 を 「迷信やオカルトも類似の概念であるが、それそのものは科学であると誤解される要因を持ち合わせておらず、疑似科学とは言えない。しかし、迷信やオカルトを科学的に説明でき、または証明された偽って語られる時、それは疑似科学となる。」 への書き換えがより適切かと思います。--222.225.90.203 2005年10月10日 (月) 21:39 (UTC)
公平性に疑問があります。
最初の所、
- >「科学的な装い」をまとっている分、社会に与える悪影響が大きい。
は、公平性を欠く書き方だと思います。「悪」であると言い切っているからです。
- >「科学的な装い」をまとっている分、社会に与える影響が大きいとされる。
ではいけないのですか?--っ 2004年10月11日 (月) 10:49 (UTC)
- それは考えすぎではないでしょうか? 疑似科学とは定義上公衆を欺くものですから、悪であると取られているのはごく自然なことでしょう。だからこそ、「○○は疑似科学だ」というのは批判の文言であるし、個々の記事でも「疑似科学のひとつである」か「疑似科学とされることもある」かで議論になったりするのだと言えます。
言い切ってしまうことの問題については、後半の一覧部分で「疑似科学であると見なされる事項」という風に表現されており、個々の事例が悪だと言及していない点で解決されていると考えます。さんぽ (ノート) 2004年10月11日 (月) 13:53 (UTC)
中立に書くとは、たとえば裁判中の被疑者を犯人扱いしない、というのと同じで、「悪」と言ってしまっては行けないと思いますよ。批判の文言は、百科事典には必要ないと思います。「疑似科学であると見なされる事項」という表現はいいですね。--っ 2004年10月11日 (月) 15:21 (UTC)
- では、「悪」の一文字ははずすことにしましょうか。さんぽ (ノート) 2004年10月11日 (月) 15:24 (UTC)
すみません、ありがとうございました。--っ 2004年10月11日 (月) 16:01 (UTC)
- >オカルトとの境界は曖昧となることもあるが、「科学的な装い」をまとっている分、検証を欠いた知識を社会に流布させてしまう問題が大きい。
再三すみません。科学的検証を欠いた知識が、あたかも科学的検証を十分に行った知識であるかのように流布してしまうことが問題なのであって、科学的検証を欠いた知識が、科学的検証を欠いた知識として流布していることはこの世の中にたくさんあります。--っ 2004年10月12日 (火) 05:29 (UTC)
- オカルトも洗脳や詐欺などの道具に利用されますが、永久機関の場合株価操作などにも使われている例が過去に何度かあります。そういった場合には「社会悪」と言っても大げさではないように思います。でも、やっぱり「悪」というよりは、「弊害」とか「詐欺行為」というニュアンスの方がいいのかなぁ....--おが 2004年10月12日 (火) 06:30 (UTC)
私が先に書いた「科学的検証を欠いた知識」には実は二通りあると思うのですね。ひとつは、それを提唱する人がそれを信じているが、科学的な検証が十分に行われていない(もちろん、将来的にも検証に至らないかもしれない)というもの。もう一つは、最初から人をだますつもりで行っているもの。後者はもちろん「悪」といっていいと思うのですが、前者は宗教のようなもので、信じている人にとっては真実なのです。この「疑似科学」の記事は、それがごっちゃになっていますね。(分けようがない、という気もしますが。ただ分けようがないなら分けようがないで、それに基づいて書くべきです。)--っ 2004年10月12日 (火) 12:20 (UTC)
- 正しいと確認されていないことを正しいと思い込むのは、すなわち「間違った考え」です。間違った考えを持たせてしまうという点で、疑似科学は(その前者であっても)悪影響を与えていると言って差し支えないと考えますが、どうでしょうか。NiKe 2004年10月12日 (火) 12:40 (UTC)
正しいか正しくないかは、本人の判断に任されるべきです。科学的=正しいというのは、科学偏重ではないでしょうか。ここから先は思想になってしまいます。私は科学は人間の知恵のひとつに過ぎないのであり、人間の知恵は未熟なものだから、科学だって未熟だと思っています。だから、科学が絶対であるという考えはなじめません。--っ 2004年10月12日 (火) 13:42 (UTC)
- 疑似科学とされるものは「科学」と名乗っているのが常です。「科学」と称するからには科学として正しいかどうか判断されるのは当然のことです。NiKe 2004年10月12日 (火) 13:54 (UTC)
「疑似科学であると見なされる事項」に乗っているものの中には、自ら「科学的検証が十分でない」「科学的に十分検証されていない」と言っているものも含まれているように見受けますが。--っ 2004年10月12日 (火) 14:12 (UTC)
>疑似科学(ぎじかがく)は、科学を装っているが、科学的方法・科学的検証を取り入れない思考形態である。オカルトとの境界は曖昧となることもあるが、「科学的な装い」をまとっている分、検証を欠いた知識を社会に流布させてしまう問題が大きい。
から
>疑似科学(ぎじかがく)とは、科学的方法・科学的検証を取り入れていないにもかかわらず、科学を装っている思考形態をいう。科学を装っていることによって、科学的検証を欠いた知識が、あたかも科学的検証を十分に行った知識であるかのように流布してしまうことがあり、それがオカルトとは異なる問題点とされる。
への変更を提案します。--っ 2004年10月19日 (火) 00:26 (UTC)
- 通りすがりの者です。ここまでの議論を拝読しましたが、っさんがこの上↑で書かれている書き換えは議論をうまく反映させた、ヨリ問題の少ない優れたものになっていると思います。160.185.1.56 2004年10月19日 (火) 00:56 (UTC)
- 私も、っさんのものが良いと思います。--おが 2004年10月19日 (火) 06:17 (UTC)
- 僕も、っさんに賛成です。yhr 2004年10月19日 (火) 16:38 (UTC)
ある部分を修正したおかげで、別の部分がおかしくなってますねえ。 で、改良案つくったよ。
- >疑似科学(ぎじかがく)とは、科学的方法・科学的検証を取り入れていないにもかかわらず、科学を装っている思考形態をいう。
- >「科学」を装っているがために、科学的検証を欠いた知識が、あたかも科学的検証を十分に行った知識であるかのように誤った情報を流布してしまうことが問題視される。
- >いわゆるオカルトでは科学を装うというよりも、科学の守備範囲外が対象と認識されているため、科学と混同されることはあまりない。このあたりがオカルトと疑似科学の似て非なる部分である。
いかがかしらん? 賢者の石 2004年10月20日 (水) 15:32 (UTC)
いいですね。よくなりました。で、もう一押し。(最初のほう、「誤った」かどうかは、読者の判断に帰するべきです。)
- >疑似科学(ぎじかがく)とは、科学的方法・科学的検証を取り入れていないにもかかわらず、科学を装っている思考形態をいう。
- >この装いによって、科学的検証を欠いた知識が、あたかも科学的検証を十分に行った知識であるかのように<!--誤った情報を-->流布してしまうことが問題視される。
- >いわゆるオカルトも同じく科学的検証を欠いた知識によるが、オカルトでは科学を装うというよりも、はじめから科学の守備範囲外が対象であることが明らかであるため、科学と混同されることはあまりない。<!--このあたりがオカルトと疑似科学の似て非なる部分である。-->
--っ 2004年10月20日 (水) 23:29 (UTC)
しばしば疑似科学とみなされるもの - 気功と風水は入るとなってますが、オカルトであっても疑似科学だとは思えませんが。疑似科学だとされる部分とはどの部分でしょう?218.131.58.68 2004年10月26日 (火) 03:01 (UTC)
Nikeさんは、「風水」と「気功」を疑似科学に分類したようですが、賛成できませんね。もう一度、この記事の最初に記載されている疑似科学の定義を読み直してはいかがでしょう? 「風水」や「気功」は「科学を装って」いません。疑似科学の定義にしたがった判断も必要だと思います。
それに、Nikeさん自身が以前に、「疑似科学とされるものは科学と名乗っているのが常です。科学と称するからには科学として正しいかどうか判断されるのは当然のことです」と発言されていますよね。風水と気功が「科学と名乗っている」のですか?
この件について、他の人たちのご意見も幅広くお聞きしたいと思います。 Norio 2004年10月26日 (火) 15:09 (UTC)
- 本当から言ったら、「科学を装っている」という言葉があまりに曖昧なんです。
- だれが装っているのか
- 科学とは何か
- 装うとはどういう意味か
- これらが曖昧です。
- 創始者が装っていなくても、その後継者たちが装っていたら装っていたことになるのか。実は、それらの人たちは装っていないのに、回りがそう言う風に思いこんでいるだけなのか。賛同者のうちの多くは科学的であると信じているのか。だまされてるだけなのか。装っているのか。
- いくら科学をここで定義しても、装っている人たち、それを見ている人たちの間で、科学がきちんと定義されていなければ、ここの定義は成立しないんです。
- 装うとは、騙すの婉曲表現なのでしょうが、騙すにもいろいろあって、本人は信じていたり、回りを騙す気はなかったり。
- いやあ、むずかしいもんです。--っ 2004年10月27日 (水) 12:42 (UTC)
なるほど。「っ」さんのおっしゃる難しさは確かにありますね。しかし、話が拡散しないように話題を「風水」と「気功」に限ると、単に「装っている」かどうかだけではない、別の論点もあると思いますよ。私が一番ひっかかるのは、風水と気功には「伝統文化」という側面もあるということです。どちらも中国で大昔に始まったもので、伝統的な文化として連綿と続いてきたという側面があるわけです。現代科学の基準から考えて十分に実証性のある効用があろうとなかろうと、少なくとも伝統文化として続いてきたものです。これらが始まった時には「実証科学」などという近代的な概念はなかったはずでしょう。ないものを「装ったり」「名乗ったり」することはできなかったはずですよね。風水には風水の方法論があり、気功には気功の方法論があり、伝統的に続いてきたものであり、近代科学によって生まれたものではないことを世間は知っているわけですから、近代科学を評価の絶対的基準として「疑似科学」という批判的なレッテルを貼る必要がどこにあるのでしょうか? 「疑似科学」の定義に問題があるのなら、定義を再検討すべきであって、定義と合わないものを疑似科学の例として挙げるのは、百科事典として具合が悪いんじゃないですか? Norio
- 「風水」と「気孔」が疑似科学かどうかというと、”そうである”とする意見もあろうかと思います。個人的には疑似科学に分類しておりますが。ここは「風水」と「気孔」が”実際に”疑似科学かどうかを検証する場でないと思いますので、見なす場合と見なさない場合の両論併記が良いと思われます。定義を変えるべきという意見には私も賛成です。一応考えてみました。
- 「疑似科学(ぎじかがく)とは、科学的な方法論を取り入れていると一般には考えられているが、実際には科学的検証が欠けている、または検証を行えない知識・学問をいう。また、まだ科学的に実証がされていないが、なんらかの体系的な手法を取り入れている近代科学以前の学問も、疑似科学と呼ばれる場合がある。」Ligar 2004年10月27日 (水) 16:45 (UTC)
- この方針に一票。疑似科学を原義通りに捉える場合と、より広くオカルトまでを含めて疑似科学とする場合の、両方が存在するということは、ここでの議論が何よりの証拠だと思うので、両論明記して然るべきかと。後者に関しては、しばしば反オカルトの立場にある者に見られる混同だ、と補足してもいいかもしれないですね。というか、個人的には後者に近い立場なので、補足されても仕方ない、というべきか ^^;Y tambe 2004年10月28日 (木) 03:26 (UTC)
一般論をひとつ。あるものを「疑似○○」と呼ぶときに、「装っている」とか「欺いている」といったことは必ずしも本質ではなく、要は「はっきり違うけど、(誘導的かどうかに関わらず)混同する場合がわりとある」ということでは。偽装と疑似の違いというか。もちろん「疑似科学」という概念がどういう成り立ちなのかはあんまり考えてないのですが(なんちゃって)。Mulukhiyya 2004年10月27日 (水) 15:41 (UTC)
- 本題とあんまり関係ないけど、漢方の一部などが西洋近代科学的見地で見ても意味のあるものだと判断されることが多くなってきた影響で、東洋の体系的に整備された知識体系がなんとなく科学的にも意味のあるものなんじゃないかと思ってしまうような風潮が見られるような気がするのは気のせいですかねぇ。そういう意味で、現代日本において特に中国由来の伝統的な知識体系の多くは"疑似科学"とみなされる場合があるといってしまって良いような気がします。"疑似科学"という概念は対象物そのものの特性というよりも、一般的にどう見られるのかという点が重要だと思うからです。ある科学的裏付けのないものを"疑似科学"と判断する根拠は、それについて科学的な裏付けが有ると思う人がいるかどうかだと思います。これにかんれんして、ある程度の科学教育(自然科学に限りません)を受けた人でないと、科学かどうかの判断も雰囲気でしかできないように思われます。ですから、理論があれば科学だ見たいな受け取り方はごく自然なことであると思います。yhr 2004年10月27日 (水) 22:12 (UTC)
そうですね。ここでの「疑似科学」は、「偽装科学」の意図で使っていますよね。科学的でないものは、糾弾しちゃえ、みたいな。
そこに最大の問題がありそうです。私は、ここであげられたものの中には、非常にまじめなものが含まれていると思いますよ。
- 厄介な現象としては、本来は「非常にまじめ」で科学的手法によらなかったものが、その理論体系に疑似科学を取り込んでしまうということも、問題の一つだと思います。例えば(具体的にそういう例があるわけではなく想像としての「例」ですが)「気功」を学んでいた人の中から「気功は脳波の働きによって云々」という理論を提唱する人が出たり、同様に「風水は地磁気の強弱が云々」という理論を提唱する人が出たりした場合、それはすでに疑似(偽装)科学の域に入るのではないかと。実際にもそういう事例は少なくないと思います。さらに、この場合、これらの気功や風水の理論が、必ずしも「疑似気功」「疑似風水」として、本流から外れたものとして扱われるとは限らない。むしろ、反証不可能性によらない非科学の立場では、異端として扱うことは可能でも、論駁することが難しく、結果として理論に取り込まれて、疑似科学の境界が曖昧になるのだと。このあたりは、気功や風水など個別の項目で、その内部の立場の人から、どこまでが科学によらない体系で、どこが疑似科学的かつ異端の学説なのかということを示してもらえると助かりますねY tambe 2004年10月28日 (木) 03:26 (UTC)
Y tambeさんがおっしゃるような両論併記をする場合には、オカルト系や伝統文化系のものを疑似科学と呼ぶのは「混同あるいは誤用」だと断ったうえで、疑似科学と呼ばれる場合もあると書くのであれば、私も納得できるのですが。他の百科事典(例えば「エンカルタ」)を参照しても、科学とよく似ているけれども科学的な検証がされない(できない)ものを指すといった感じで定義していますよね。「疑似」という言葉はもともと「区別のつけにくいほどよく似ていること(大辞林)」という意味ですから、「よく似ているけれど実証的科学ではない」がポイントではないですか。そのようなものは「科学」と広く認められている分野の中にある非科学的理論にあてはまる場合が多いのではないでしょうか。唱えている人も科学者風だったり、学位を持っていたりして。
一般的にどう見られているかにあまり重点をおくのは危険だと思いますよ。世間が誤解していることはよくあるし、その誤解を定義の中にとりこんでしまったら、誤解を助長する結果になるだけで、百科事典としての役目を果たせないのではないでしょうか。 まして、疑似科学という言葉は批判的に使われることが多いのですから、誤解による弊害も考えられますよね。伝統文化としての気功をやっているだけの人が、疑似科学だと言われたら不愉快になると思うんですよ。科学としてやっているわけではないでしょうから、効用があるかないかは本人が判断すればいいだけで。実際に今でも気功は中国で大々的に健康法としてやってるみたいですし。
そういえば、私も健康法として「サイクリング」を時々やってますが、まさか疑似科学とは言われないだろうなあ。効果があるかどうか科学的に実証したわけではないんですが。 Norio 2004年10月28日 (木) 10:48 (UTC)
- 疑似科学の場合の「擬似」の意味においての、「よく似ていて区別できない」点は、「科学的に検証された知識であること」が一般人など専門家以外の者にとって「区別できない」ということです。
- しばしば疑似科学として扱われることがあるという表現は、その分野全体が疑似科学であるということを示しているわけではないのですから、問題があるとはいえません。疑似科学として扱われる場合は大抵、ある分野において、科学的知識に基づかない特定の効果を、科学的知識かのようにうたうというのが典型的なものです。
- 例えばサイクリングが疑似科学といわれるかどうかは、Norioさんが何の効果を狙った健康法としてとらえているかとそれを科学的に意味があるととらえているかによるので、疑似科学と扱われる場合もありえますよね。kaz 2004年10月28日 (木) 11:19 (UTC)
- 「しばしば疑似科学とみなされるもの」という項目名表現は、私には分野全体を指すように受け取れるんですけど。「しばしば疑似科学を含むといわれるもの」のような部分表記であれば納得はいきますが。218.131.58.68 2004年10月28日 (木) 13:37 (UTC)
風水や気功
風水や気功は、「科学的知識かのようにうたう」に入るのでしょうか? 要するに「装っている」がポイントですか? 「効果があるか、ないか」がポイントですか?
私がサイクリングをやるのは、「運動不足は身体によくない」、「サイクリングは自分にとっては適度な運動だと思う」、「だからサイクリングは健康に役立つのではないだろうか」というぐらいの非科学的な理由でやってます。やっぱり、疑似科学として批判されなければならないのでしょうか? Norio 2004年10月28日 (木) 12:06 (UTC)
- 個人的にやる分には、批判される言われなどないと思いますよ。問題は、宣伝したり喧伝したりする場合ですね。kaz 2004年10月28日 (木) 13:33 (UTC)
- 風水や気功については、ウィキペディア上に書かれている風水や気功の範囲であれば、疑似科学に含める必要はないと思いますが……実際問題として、例えば「気功の力で○年間、ご飯を食べずに過ごせる人間」なんて主張してる人も中国にはいますよね? これはさすがに疑似科学でしょう。「ご飯を食べないでは人は生きられない」という科学的な見解に反することで、しかも反証が可能なのにそれをやらせない、という典型的なパターンですから。彼らの言う「気功」とウィキペディアに書かれている「気功」はどう違うのか。気功が、例えば「気功と疑似気功」みたいな区分をしているのであれば話は別ですが、それを明確に定義していない以上、少なくとも気功には疑似科学の部分が含まれる、と言われてもしかたないのでは?Y tambe 2004年10月28日 (木) 14:18 (UTC)
風水に関しては、疑似科学としているかたが想定しているのはDr.コパ的なものであって、疑似科学としていないのは古代中国の思想としての風水なのではないでしょうか。つまり、想定しているものがずれているのがここでの議論のずれなのではないでしょうか。Wikipedia での風水は後者なので、私の考えが正しいなら、削除した方が適切だと思います。Baba 2006年4月27日 (木) 05:25 (UTC)
疑似科学とは何か
私は、だんだん、受け取り側の問題のような気がしてきましたよ。一般に科学と認められないものを科学だと信じることによって初めて、疑似科学だと言うことが成立するわけですから。そうなると、○○は疑似科学だ、○○は疑似科学でない、という色分け自体が無意味ですよね。--っ 2004年10月28日 (木) 14:29 (UTC)
- 私にはNorioさんの論法が奇妙に思われてなりません。定義を変えるべきと主張しておられながら、現在の定義にこだわって論を展開されております。それはまあ、置きまして、オカルト系や伝統文化系(?)を疑似科学と呼ぶのは誤用だとする意見に反論いたします。「疑似科学」は科学的手法をとっている人たち(科学者)からのある種の知識へのレッテルですから、かれらが科学的でないと批判的にみているものは、「疑似科学」なのです。科学的検証が試みられているが、いまだ実証されるにいたってない知識のうち、特に社会的影響が大きく見えるものは、懐疑主義者の科学者には「疑似科学」と分類されるかもしれません。風水や気功の「伝統文化」としての側面は、また別の話だと思います。Ligar 2004年10月28日 (木) 15:43 (UTC)
私は、「定義を変えるべきと主張」してはいませんよ。私の文章をよく読んでくださいませ。「疑似科学の定義に問題があるのなら、定義を再検討すべきであって、定義と合わないものを疑似科学の例として挙げるのは、百科事典として具合が悪いんじゃないですか?」と言ったのです。「定義に問題がある」と主張したわけではないんです。私のポイントは後半の、「定義と合わないものを疑似科学の例として挙げるのは、百科事典として具合が悪いんじゃないか」だったんです。私は正直に言って、今の定義は他の百科事典でも採用されているものと近いので、オーソドックスなのかなと思ってます。そして、風水や気功はその定義に合わないんじゃないか、というのが私の主張なんです。中には、科学的であるかのように派手に宣伝して風水や気功を利用して金儲けをたくらむような人がいるのかもしれませんが(私は具体例は知りません)、それは個人の倫理の問題で、風水や気功そのものは、あくまでもウィキペディアの風水や気功の範囲にあるもので、単に「風水」であり、「気功」であって「疑似科学」の現行の定義には合わないんじゃないかと思うわけです。また、もしLingerさんの提示された新しい定義を採用して両論併記をするのであれば、私やY tambeさんが提案したような断り書きをつけてほしいと言っただけですよ。
それから、科学的手法をとっている科学者たちが科学的でないとみているものが「疑似科学」だという主張には、「恐れ入りました」というしかありません。そうなると、科学者ではない私などが疑似科学について議論するのはおこがましいことなのでしょうから、私にできることと言えば、「科学者さんたちの唱える説とか治療法とかが常に本当に科学的に検証される(されうる)ものであればいいなあ」と願うだけですね。 Norio 2004年10月28日 (木) 17:57 (UTC)
やっぱりここは、統計でうそをつくものやマイナスイオンのように未定義語をさも科学用語であるかのように使うとかの明らかな疑似科学以外はリストアップするのは弊害のほうが大きいんじゃないかなぁと思う。さもなくば疑似科学と混同されるものの一覧とか。気功や風水に関してはそれ時代は伝統に立脚したまっとうな理論体系であるがその歌う効用についての科学的根拠はないものなんだから、もし科学を歌いながら風水を実践するものがいれば疑似科学だがそれ以外はせいぜいオカルト扱いだというような断り書きをいちいち書き込むのが本筋なのかも。まあ、やっぱり科学的根拠があるかのように受け取られた瞬間に、正真正銘の科学以外はみんな疑似科学と化してしまうってのが実情だけどね。その分野を担ってる当人が意識するかどうかとはまったく別問題。yhr 2004年10月28日 (木) 18:29 (UTC)
Lingarさんの、「疑似科学は科学的手法をとっている人たち(科学者)からのある種の知識へのレッテルですから、かれらが科学的でないと批判的にみているものは、疑似科学なのです」という主張について、蛇足ながら一言だけコメントさせてください。
それが事実だとすると、例えば有名な科学者の大○先生が「気功は疑似科学である!」とご託宣を垂れたら、それは絶対的に真実であり、下々が反論することは許されず、つまり「反証可能性」がないということで、ということは、あれ?、「疑似科学理論」自体が「疑似科学」だという結論になってしまいましたよ。困ったなあ。(悪フザケが過ぎていたらごめんなさい! ウケをねらっただけなんです) Norio 2004年10月29日 (金) 23:46 (UTC)
再定義
いや、悪ふざけとはいえません。このままでは疑似科学、と言う言葉自体、反証可能性がないと言う点で、非科学的ですよ。
2つの論点が一緒に議論されているので、先に進まなくなっているように思います。
ひとつは、非科学性の問題。
もうひとつは、非科学的なものの中で何が疑似科学でなにがここでいうオカルトなのか、と言う問題。
それをふまえて、定義し直してみます。
疑似科学(ぎじかがく)とは、非科学的とされる理論や知識の内、科学的であるように見えるものを言う。
定義
非科学的とは
非科学的とは、科学的に理論づけられていないもの、という意味ではない。科学的であるために、科学的に理論づけられている必要はない。科学的とは、反証の可能性があるもの、と言う意味である。すなわち、非科学的とは、こうすれば反証できる、という方法の残されていないもの、という意味である。
科学哲学者ポパーは、科学の基本条件として、「反証可能性 (falsifiability)」を挙げた。通常の科学理論は、もしそれが間違っているならば、そのことを示す証拠が見つかる筈である。科学は、「仮説-実証」の両輪で進められる(→科学的方法参照)。すなわち、「反証」事実がでてくれば、元の理論を修正するのが科学の営為であり、「反証できること」がいかに科学にとって大事であるかをポパーの言葉は示している。
例えば、相対性理論から導かれる有名な結論として、「いかなる質量も真空中の光速を超えて運動することはない」というものがある。そのため、ある物体を超光速で動かしてみせること、あるいは動いた結果を示すことができれば相対性理論は否定される。これが反証可能性であり、これによって相対性理論は科学理論であるといえる。
これに対し、例えば降霊会を開いて霊を呼び出す実験が失敗したとする。科学の方法に於いてはこの失敗によって、霊が存在するという仮説が、少なくとも今回用いた方法(条件)によって霊を呼び出せるという仮説が否定されたと考える。ところが、一部の心霊学者はこれを「霊の実在を疑う者がいたための失敗」と考える。この主張(考え方)を認めると、いかなる事実が示されようとも霊が存在するという仮説を否定することはできない。即ち、反証不可能なのである。
疑似科学か、単なる非科学か
疑似科学とは、科学性が否定された上で、科学的であるように見えるものである。ここには様々な主観が入る余地があり、一概に言うことはできない。一般には、その理論や知識の呼称に「○○科学」と名付けられていたり、主唱者等によって「科学的に証明された」と喧伝されたときには、疑似科学と呼ぶことができるであろう。それに対し、たとえばオカルトと言われるようなものは、科学的であるようにはとうてい見えないので、単なる非科学であり、疑似科学とはいえない。
--っ 2004年10月30日 (土) 00:43 (UTC)
- 全然ウケませんでした。いくら高名であろうと、一人の大先生が無茶苦茶なことをいっただけでは世界的には相手にはされることはないでしょう。科学者たちだけでなく、科学的な判断をそれなりに可能な多くの人たちもいます。kaz 2004年10月30日 (土) 00:44 (UTC)
- ああ、ちょっと誤解されているようなので。「科学者」は、別に研究室でふんぞり返ってる人たちのことではありませんよ。「科学的手法をとっている人たち」が長いので省略しているだけです。で、そういう人たちは普通、根拠もなく批判をしたりしません。また、いったん批判するとなったらひとつの論文になるくらいになります。それは結構タイヘンだし、かなりの気力がいるので、いままで疑似科学への検証批判というものが少なかったのだと思います。(自分の研究も忙しいし)
- つまり、そういう人たちからの批判というものは、それだけ社会的影響が見過ごせなくなっている状態なわけです。もちろん、その批判論文は科学的に検証可能なものですから、反証可能性はありますよ。ついでに私の定義も、批判論文(本)が存在するかしないかで区別できるので、反証可能性はあると思うのですが。
- あと、気功と風水についてのNorioさんと私の見解の違いは、疑似科学の定義の問題だと思います。私は非科学のうち、なんらかの説明や手順が示されているもの(気功なら、この動作をすると気がこう動くなど)は、すべて擬似科学へ分類しておりますが(科学的に研究した批判論文、本が存在するからです)、Norioさんは非科学のうちでも、最近登場しており、とくに科学を偽装しているもの、あるいは科学的手法をとっているにもかかわらず、なぜか結果が非科学になったものだけを指しておられるのだと思います。Ligar 2004年10月30日 (土) 02:51 (UTC)
私の悪フザケは全然受けなかったそうなので(当たり前か)撤回しますが、Ligarさんがおっしゃるように定義の問題だとしたら、定義をきちんとしなければいけないわけですね。定義を恣意的に変えることはまずいはずですから、伺いたいのですが、Ligarさんの提案された定義が現在の科学の世界で正統的で妥当なものだとされているのですか? Norio 2004年10月30日 (土) 05:05 (UTC)
- 面白いことに、疑似科学についての定義というのは、その歴史だけで項目がとれるほど様々なんです。「疑似科学」は「pseudo-science」の訳です。まず、初出を見てみましょう。1844年のNorthernJarnal誌からです。
- ”That opposite kind of innovation which pronounces what had been before recognized as a branch of science, to have been a pseudo-science, composed merely of so-called facts, connected together by misapprehensions under the disguise of principles.”
- 「科学の法則を口実にした誤解のかたまり」ですね。
- 日本では『鏡の中のアインシュタイン』からです。
- ”非科学・擬似科学・偽科学とも訳される。見かけは科学のように見えるが、データの扱い方や実験の信頼性、統計処理について、科学の正道を踏まずにとてつもない結論を出す「科学もどき」の総称。占星術、UFO論、超心理学、心霊術などが含まれる”
- 英語版wikiでは、”A pseudoscience is any body of knowledge purported to be scientific or supported by science but which fails to comply with the scientific method.”
- です。これは私の定義の一行目とほぼ同じです。
- ”疑似科学(ぎじかがく)とは、科学的方法・科学的検証を取り入れていないにもかかわらず、科学を装っている思考形態をいう。”これが現在の定義です。
- しかし「オカルト」とは区別しなければならないとしています。「オカルト」と区別する必要があるのかは疑問です。私たちは非科学であると宣言しているオカルトがあるのでしょうか?あるのなら、たしかに明確に区別すべきですが。
- 区別すべきは「異端科学」です。これは英語版のWikiにも書かれているように、科学者たちのコンセンサスだと思います。
- 「異端科学」は、現在の主流の学問からは完全に離れているものを研究している科学のことです。ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』や、ウェゲナーの『大陸移動説』などが例としてあります。私が記事を書いた『断続平衡説』もそうかもしれません。これらははっきりと科学的手法をとって研究していますが、はっきりした証拠がないので異端視されています。(大陸移動説はプレートテクトニクスとして復活しましたが)しかし、これらは疑似科学ではありません。
- 現在の定義、および、っさんの定義での問題はこの点に触れていないことです。私のも触れていないですね(笑)
- Ligar 2004年10月30日 (土) 08:21 (UTC)
ありがとうございます。いろいろと質問したいことが出てきてしまいましたが(教 えを請うという意味で)、散漫にしたくないので、自分なりに整理してからにしたいと思います。今夜はこれで。 Norio 2004年10月30日 (土) 12:53 (UTC)
おーい、下記、ちょっと中立性に欠けるんジャマイカ?
- さらに歴史学では修正主義を疑似科学と批判する向きもある。これは歴史学そのものに反証不可能性について難しい問
- 題があることに由来しているのだが(歴史は繰り返さないので再実験が不可能)、それを逆手に取って通説をいくつか
- の矛盾点を挙げることによって簡単に否定し去ってしまう手法を修正主義が多用したことによる。(ホロコーストは存
- 在しなかった、南京大虐殺は存在しなかったなど)
歴史修正主義の条項を読んでみても分かるが、修正主義という概念自体かなり中立性を保ちにくい話題だろ?その上これはどう見ても片側の立場からしか論じてないと思うぞ? 歴史学に反証性の概念を持ち込むこと自体、歴史学に本当に通じている人が書いているのか疑問に思うが。
- 通説をいくつかの矛盾点を挙げることによって簡単に否定し去ってしまう手法を修正主義が多用したことによる
の「修正主義」っていう呼び方もすごくステレオタイプ的な表現だと思うし。
すみません、ちょっと思想史的観点から2つの意見を出してみたいと思います。
- ポパーの反証可能性を疑似科学の基準とすること:これは現代日本における「疑似科学」の用法からしてあまり適切ではないように思われます。反証可能性というのは「反証できるかどうか」ということであり、一旦反証されたものはアド・ホックな仮説を追加しない限り反証不可能な主張にはなりません。例えば、「水に話しかける云々」ということが反証された後で、その反証されたのと同じ理由で同じことを主張し続ける人がいるならば、その人は反証可能性を満たしていないというよりも、単に反証されたことを知らない(悪意のない不知)か故意にそう主張している(営利目的か何かで「水に話しかける云々」の真偽はどうでもよいと思っている)かのどちらかです。ポパーが言うところの「反証可能性のない理論は科学ではない」というのは、文字通り単にそういう意味であって、反証可能性のないものは偽であるとか反証可能性のないものは無意味無価値であるということではありません。後者を主張していたのは論理実証主義者ですが、論理実証主義は反証主義の立場を取っていません。しかし、現状では「疑似科学」というのは否定的ニュアンスをどうしても伴いますから(例えば先の事例で言えば業者が命題の真偽を問わずに科学に見せかけるような行動は最も典型的な疑似科学でしょう)、このような場合にポパーの反証主義を持ち出すのはやや不適切であるように思われるわけです。端的に言うと、反証主義は日常感覚での非科学性を判定するには狭すぎるのです。
- サイエンスの訳語の問題:サイエンスはラテン語のscientiaから来ているのだと思いますが、17世紀あたりの文献では「scientiaというのはnaturaを研究するものである云々」というのを見かけます。つまり、伝統的にはサイエンスというのは自然科学のことであり、文学、法学、神学、形而上学などは最初から含まなかったのではないかと推測されます。要するに、形而上学がサイエンスではないというのは、その本来の定義からしてそうなのだということです。ですから、西欧の研究者がpseudo-scienceというときは(これもラテン語のpseudoとscientiaからの合成語だと思いますが)、「自然科学という意味でのサイエンスに当たらない」ということなのか、それとも「全学問分野に値しない」ということなのかをよく見てみる必要があるのではないでしょうか。これについては、特に日本語で「非科学的だ」というと既にそれ自体で悪い意味に取られる傾向がありますから(これはおそらく学問=科学という意識があるからだと思います)、そのへんにも注意しないければならないと思います。例えば以下のような現行版での説明は、学問と科学、非学問と疑似科学を同一視しているように読めます。--Inabasan 2008年3月5日 (水) 04:09 (UTC)
- 精神分析学:学問とみなされる一方、カール・ポパーを初め疑似科学に過ぎないとみなしているものも多い。
科学を名乗った気功と風水
少なくとも科学を名乗ることがあるようなので、どちらも一応入れておいて良いのではないかと。
一応マトモな科学的研究や関係がないものも含まれていますが、風水+科学 気功+科学。Kadzuwo 2004年10月30日 (土) 05:37 (UTC)
- よいポインタをありがとうございます。私が問いかけたのはまさにこの点です。上では「定義」の問題に触れて「気功や風水はその定義に当てはまらない」という議論が進んでいますが、そもそも、その「定義に当てはまらない」というのはNPOVと言っていいのか、というのが疑問なのです。正直言うと、現在の版では別物とされている「オカルト」についても、それをNPOVと言い切る自信は、私にはありません。もちろん「これらが疑似科学の定義に当てはまらない」ということがNPOVであるのならば、それをリストに含めるのは不適当でしょう。しかしこの議論の流れを見る限り「NPOVである」ということは合意を得られているとは言いがたいし、かと言って「疑似科学の定義に当てはまる」というのもNPOVではない。だとすれば、ウィキペディアとしては両論並記しかない、というのが私の主張です。ただ、これはむしろ、疑似科学の定義やその誤用というより、オカルトや気功、風水の方が、それ自身と疑似科学との分離のすべを持たないために生じている混乱なのだと思うので、「誤用」と書かれるのはちょっと断言的すぎるな、と思っています。むしろ「混同」くらいの表現の方が、私には受け入れやすく感じます。Y tambe 2004年10月30日 (土) 05:58 (UTC)
リストのタイトルの直下に「疑似科学と、未科学・科学・宗教・オカルトなどとの境界はしばしば不鮮明であり、それぞれの項目について様々な議論がなされているものも含まれている。この一覧に掲載されていることによって該当項目が疑似科学であると主張するものではないことに留意の上利用することが望まれる。」という断り書きを入れるというのはどうでしょう? この文章は、カテゴリーの方の「疑似科学」の説明文にあるものをコピーしてきたんですが。善意で昔ながらの風水・気功をやっているだけの人たちを刺激したくないというか、その辺の心配りをしたいというか、無用な反感を招きたくないというか、そういう非科学的な気持ちではありますが。 Norio 2004年10月30日 (土) 08:40 (UTC) 上記の私の「気配り論」を補足しておきます。私が「気配り」が必要だと思う理由は、風水・気功あるいはオカルトの一部もそうかもしれませんが、これらには技術的な側面だけではなくて、思想・信条・人間観・世界観といったものも含まれているんじゃないかと思うからなんです。科学者が「疑似科学」と批判するのは、恐らくその技術的な部分に注目して「科学的ではない」と主張するのだと思います。しかし、その背後には思想・信条・人間観・世界観があって、科学がそれらを批判するのはおかしいと思うわけです。法律的にも、「思想・信条・信教の自由」は憲法で保障されてるわけですから。たとえば、「風水は疑似科学だ!」という主張を百科事典が支持したら、風水を単なる技術ではなく自分の思想や世界観として考えている人は、自分の思想・信条まで否定されたかのように感じる可能性があります。私がこの長い議論を通じて一貫して本当に主張したかったのはこの一点だったのだということに気付きました。ですから、上記の点を配慮した定義や記述であれば、両論併記であろうと、リストに断り書きを入れるであろうと、私はかまいません。他人の思想・信条や世界観を尊重してほしいということが言いたいだけだったので。科学者としてのLigarさんに質問したかったのも、結局、この一点をどのようにお考えなのかということなんですね。 Norio 2004年10月30日 (土) 23:41 (UTC) 定義の下に、上の“定義の歴史”を載せたいですね。理解の助けになると思います。また、異端科学(は科学に含まれるのでしょうが)も似ている言葉として、挙げる必要がありそうですね。
それから、Norioさんの言われる挿入は、{{medical}}
ウィキペディアは医学的助言を提供しません。免責事項もお読みください。 |
が参考になりそうです。--っ 2004年10月30日 (土) 09:47 (UTC)
注意書き
記事のはじめに、
を、入れるとか....
リストの前の挿入は、
あたりか.... --っ 2004年10月31日 (日) 05:43 (UTC)
- そこまで凝らなくても・・・なぜそこまで疑似科学者、オカルト研究者に配慮すべきか分かりませんが。
- ↑正気?貴方のような考え方を持つ人間はこの項目を一切編集しないで欲しい。この項目はレッテル貼りや他者叩きの為の場ではない。誤解と思い上がりも甚だしい。--61.7.48.45 2007年2月2日 (金) 00:42 (UTC)
- 医療情報は、間違った記事なら読んだ人にとって危険ですが、疑似科学と誤ってカテゴライズされてても、読んで信じた人が危険になるわけでもありません。本文中に「この項目は疑似科学とされている(orみなされる場合がある)、その根拠として~」の文章があればいいだけかと。両論併記でいきましょう。Ligar 2004年10月31日 (日) 16:48 (UTC)
疑似科学者に配慮してるわけじゃないでしょ。疑似科学に混同されることが有るけど本来はまじめにやっている人たちへの配慮さ。まあテンプレートは大げさだと思うけどね。せいぜい、「その一部に疑似科学とみなされるものを含む分野」とか「疑似科学と混同されることもあるもの」とか言い回しの工夫でどうにでもなるとは思う。yhr 2004年10月31日 (日) 20:38 (UTC)
テンプレートにするかどうかは別にして、少なくとも「疑似科学」という言葉を使って安易にレッテル張りをするのは慎むべきだというポイントは説明文の中に入れてほしいですね。Ligarさんがおっしゃるように、論文などの形できちんと反証可能性を提示したうえでのレッテル張りでないと「疑似科学」という言葉が「カルト」という言葉と同じように定義の不明確な単なる侮辱用語に堕落する可能性があると思います。つまり、ペタペタペタペタと何にでも無責任に「疑似科学」というレッテルを貼ってしまうような風潮が現れたら、一番痛手をこうむるのはマジメに疑似科学批判に取り組もうとする科学者たちではないでしょうか。これは疑似科学者への配慮ではなく、マジメな疑似科学批判者への配慮ですよ。 Norio 2004年11月1日 (月) 19:49 (UTC)
科学の定義と神学
科学によれば科学に人文科学が含まれ、人文科学によれば人文科学に神学が含まれるのですが、神学に反証可能性はあるんでしょうか? ないんじゃないかと思うんですが。だとすれば、すごい矛盾に陥ります。--っ 2004年11月1日 (月) 09:09 (UTC)
疑似科学という文脈で使われる場合の科学は狭義の科学で自然科学のことでしょう。kaz 2004年11月1日 (月) 11:01 (UTC)
- と思ったのですが、カール・ポパーの主張によろば、そうではないのですね。見落としてました。
- これは、神学が何を実証しようとする学問なのかによるのではないでしょうか。例えば、「特定の神は実在すること」を実証しようとしている、とかだと反証可能性がないと思いますが・・・。そういう実証をする学問なのでしょうか。kaz 2004年11月1日 (月) 11:08 (UTC)
- 神学の項目が扱っているキリスト教神学は、最初から神の存在、イエスの救い、それらについて書かれた聖書を疑わざるべきものとして扱うのですから、この点について反証どころか議論の余地そのものがないですね。--っ 2004年11月1日 (月) 15:03 (UTC)
- それって自然科学において自然そのものを疑わないことと何か違いはあるんですかねぇ。その辺気になる。yhr 2004年11月1日 (月) 20:50 (UTC)
- 人文科学における「科学的手続き」というのは、要するに「ちゃんと他の同類研究者の意見や反論を理解し耳を傾けられる」とか「論理性がちゃんとあってその分野の約束を認識している」とかであり、NPOVの記事の後ろの方にもあるとおり、自然科学者にも増して人文科学者は「反証可能性」のことを気にかけているもんだと思います。所謂人文科学における「知の技法」とかいうやつで、哲学者や文学者や民俗学者や考古学者はその訓練に多くの時間を費やします。キリスト教学者同士で神の存在自体を前提とするのは、別に構わないと思います。それぞれの科学にはそれぞれの前提やお約束や出発点とすべき既存の概念がありますから。が、既存の神学を顧みず批判も無視して、「実は聖書に富士山噴火が予言されている」とか、誰も言ってない事を突然断言して修正不可能、とかなら、プロセスとして"疑似神学"になるでしょうし、神学者が突然自然科学に殴り込み、物理学の前提を全部無視して神様の力で物理現象を説明しようとするなら、明らかに疑似科学になるでしょう。naruto 2004年11月2日 (火) 02:27 (UTC)
新たな定義の提案
疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問、学説、理論、知識、研究等のうち、科学として社会に認知されるような何らかの要因を持っていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たそうとしていないものをいう。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。
--っ 2004年11月6日 (土) 01:04 (UTC)
反応がないってことは、???
賛成、反対でも書いて欲しいなあ--っ 2004年11月10日 (水) 00:00 (UTC)
定義の部分はこれだけですか? ここからいきなり「ハインズは『超科学をきる』(ISBN 4759802754)で疑似科学の傾向を以下のようにまとめた。」に行くわけですか? 確認のために訊くだけですけど。 Norio 2004年11月10日 (水) 10:29 (UTC)
そうです。--っ 2004年11月10日 (水) 12:30 (UTC)
異端科学っていう概念がよくわからないのですがここで触れる必要あるんですか?だいたい「科学として社会に認知されるような何らかの要因」って言うのもあいまいでよくわからないし。yhr 2004年11月10日 (水) 12:39 (UTC)
プロトサイエンスと未科学と異端科学は同じ概念です。詳しくは未科学で。それ以外は問題ないと思います。厳密に定義したいところですが、そうすると社会一般の理解から離れてしまう気がします。Ligar 2004年11月10日 (水) 14:13 (UTC)
- このノートの上の方を読むと、異端科学は未科学ではなく、歴とした科学であるにもかかわらず、それまでの常識などとあまりにかけ離れているため、科学者主流から認めてもらえない、しかとされてる、科学、という印象があったのですが....--っ 2004年11月10日 (水) 14:46 (UTC)
- どちらもプロトサイエンスの訳語なので、区別すべきかどうかという問題がありますが。まあ、大胆な編集をしてもらっていいですよ。Ligar 2004年11月11日 (木) 08:45 (UTC)
私も、「科学として社会に認知されるような何らかの要因」というのが曖昧で危険だと思いますが。拡大解釈されて 、当事者が科学と主張するつもりがまるでないものまで、誰かが「科学っぽく見える」と主張するだけで、「疑似科学」の烙印を押されることになるんじゃないですか。 「疑似科学」という烙印に対する「反証可能性」が低い定義になってしまっていると思いますよ。「いや、これは科学のつもりでやっているのではありませんよ」と当事者が反論したくても、社会の一部が「科学っぽく見える」と主張すれば、反論できないわけですよね。当事者は、「これは科学ではなく、○○です」と大声で言っているにもかかわらず。 Norio 2004年11月11日 (木) 01:22 (UTC)
主唱者や研究者が科学であると主張したり装わせたりしていなければ疑似科学でない、と言っていいですか? それならば、
- ×科学として社会に認知されるような何らかの要因を持っていながら、
- →その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、
--っ 2004年11月11日 (木) 06:21 (UTC)
結局、いまの定義と一緒になってしまいましたね。(笑)Ligar 2004年11月11日 (木) 08:45 (UTC)
意味合いとしては似ていても、かなり客観的な言い回しになったと思うんですけど。--っ 2004年11月11日 (木) 10:04 (UTC)
良くなったと思います。実際に、他の百科事典(エンカルタ)にも近い定義だし、正統的な解釈かと思いますが。元々、「疑似科学」という言葉自体が、反証可能性のないものに対する批判用語なのですから、「疑似科学」という言葉自体の使い方や定義に反証可能性がなければ(低ければ)、非科学的な侮辱用語になってしまうと思います。 Norio 2004年11月11日 (木) 19:05 (UTC)
疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たそうとしていないものをいう。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。
--っ 2004年11月12日 (金) 00:18 (UTC)
- protoscienceに関する「類似の概念で~科学の要件~至らないもの」の部分。「科学の要件」の「科学」がこの場合誤解を招きやすい言葉ですし(未科学参照)、「科学の要件=科学的方法」だ、という流れが、良く読まないと見えづらいです。その上で、「科学的方法を満たそうとするが未だそれに(すら)至らないもの」はprotoscienceと呼んでいいのかな、という疑問もあります。明確に「科学的方法を採用するが」としていいんじゃないでしょうか。naruto 2004年11月12日 (金) 10:01 (UTC)
疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たそうとしていないものをいう。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。
--っ 2004年11月14日 (日) 08:38 (UTC)
すみません、オカルトより迷信のほうが適切な気がしてきたので....--っ 2004年11月14日 (日) 23:26 (UTC)
- 迷信もオカルトも定義に必要とは思わないのですが、とくに反対しません。Ligar 2004年11月16日 (火) 11:04 (UTC)
- 「類似の概念~」以下いらないんじゃないですか?yhr 2004年11月16日 (火) 11:18 (UTC)
再定義をUPしました
再定義をUPしてみました。類似の概念は、項目に分けてみました。ご検討ください。--っ 2004年11月17日 (水) 03:53 (UTC)
最新の定義は良いと思いますよ。特に異論はありません。 Norio 2005年1月3日 (月) 23:01 (UTC)
英語版に載せられていない物
2005.4.18 10:08の222.144.75.241さんのコメントに
>英語版に載せられていない物を多く含んでいます。削除の必要性が有り?
とありましたが....--っ [Café] [Album] 2005年4月18日 (月) 13:57 (UTC)
- 「英語版に載っていないものは削除の必要」=「英語版が絶対正しい」ということになりますが、そんなわけではないので、削除の必要はないとおもいます。
- それとは関連しませんが、「しばしば擬似科学とみなされるもの」の項目から電気けいれん療法は消しました。医療上の効果も統計学的に示されていて、保険診療でも認められています。作用機序が不明な点はありますが、効果があることに関しては科学的に証明されているので、擬似科学ではないのではないかと思います。ついでに、ロボトミーも、非人道的で副作用が大きいというだけで、効果も一応認められますし(鎮静効果ともいえるし、無気力という副作用でもありますが)、作用機序もはっきりしていて、擬似科学というわけではないと思います(よって今からロボトミーも消去します)。--133.41.199.56 2005年4月20日 (水) 10:46 (UTC)
- 横からすみません。この件に関して賛否を表明する気はないのですが、問題のコメントは本文中の「英語版の疑似科学例より」節に対して向けられたものだと思います。該当編集において、その節にコメントアウトで意見が書き込まれています。その点が曖昧になっているかなぁと思ったので指摘させていただきました。yhr 2005年4月20日 (水) 13:55 (UTC)
- 英語(と言うよりこの場合は多分アメリカ)と日本で擬似科学のリストが違っていてもおかしくありません。というより違っているのが当たり前だと考えます。現在のリストの中には日本での知名度がほとんどないもの(あるいは日本には存在さえしないもの)も入っているとように見えます。記事の量が少なかったころは、この英語版のリストは意味があったと思いますが、現在では余分なのではないかと思えます。英語版のリストの一つ一つについて、”しばしば疑似科学とみなされるもの”に移動する(日本語記事があるものは日本語記事のリンクだけにする、日本語記事がないものは日本語訳(英語記事へのリンク)にする)か、削除するかしていって、最終的には、英語版のリストをなくすようにしたらどうでしょうか。例えば、カイロプラクティック(脊椎矯正療法)を移動、トランプ占い削除の様に。-Dada 2005年4月20日 (水) 14:34 (UTC)
- 2003年10月11日 (土) 19:15の版でJediさんが加えられたのが最初ですね。疑似科学の例が少ないので、それを補強する目的でとりあえずコピーした、といったイメージです。私は、”しばしば疑似科学とみなされるもの”に移動するなら、ひとつひとつゆっくりと吟味する必要があると思っています。それを載せて欲しくない、と思っている人もいるでしょうから。--っ [Café] [Album] 2005年4月20日 (水) 15:33 (UTC)
- いきなり編集したりする気はありません。意見を頂きたいだけです。もし、個々の対象について移動を議論し始めると紛糾しそうなら、日本ではまず擬似科学とは思われないもの(トランプ占い)、日本では知名度が低いので代表的な例としてふさわしくないもの(レイライン)とかを削除していくのはどうでしょうか。それと、元の英語版のリストは、経緯はよく解かりませんがここen:List of alternative, speculative and disputed theoriesに生かされてるようです。-Dada 2005年4月20日 (水) 17:07 (UTC)
- すみません、書き方が悪かったですね。確認したかっただけです。そうですね。Dadaさんのおっしゃるやり方はいいと思います。--っ [Café] [Album] 2005年4月20日 (水) 22:35 (UTC)
- 特に異論もない様ですので、編集内容の提案をしていこうと思います。実際には1つ1つやっていくと時間がかかりすぎますので、何回かに分けて提案していきます。3日程度たって、異論のでなかったものについては、記事を変更していきます。
提案1
- 削除(あまり擬似科学とは思われないもの)
- cartomancy - トランプ占い(もし残すなら、訳はカード占いの方がいいと思いますが)、channeling - チャネリング、fortune telling - 占い、geomancy - 地占術
- 削除(日本では知名度が低いので例としてふさわしくない)
- catastrophism - 天変地異説、hydrino theory - hydrino理論、Intelligent Design theory - 知的な設計理論、Ley lines - レイ・ライン、Reciprocal System of Theory - 理論の相互システム
- -Dada 2005年4月29日 (金) 10:52 (UTC)
- Intelligent Design theory - 知的な設計理論の復活を提案。バイブルベルトの動向を鑑みるに、これから知名度と影響の上昇が大いに憂慮されるので。LR 2005年9月13日 (火) 07:17 (UTC)
- 上記提案分は、さきほど編集しました。
IDは載せた方がよいでしょう。私は占いも載せた方がいいと思います。占星術関連で、占星術は統計に基く科学であると公刊された著書で主張する人が日本でもいます。そのような主張がある以上、なんらかの言及は網羅的な記載を行うならあったほうがよいと思います。代表例1つ2つをあげるというならそぐわないとは思いますが。--Aphaia 2005年9月13日 (火) 07:44 (UTC)
提案2
続いて、提案します。
- 削除(あまり擬似科学とは思われないもの)
- acupuncture - 針治療 (鍼)
- 削除(その中の一部に擬似科学的なものもあるが、それが主流ではない)
- Astrology - 占星術、chiromancy - 手相術、dowsing - ダウジング、graphology - 筆相学(アメリカ版を読むと擬似科学的な側面が大きい様にも感じましたが・・・)、numerology - 数秘学 (占数術)
- -Dada 2005年5月3日 (火) 01:53 (UTC)
- 上記提案分は、さきほど編集しました。
- acupuncture - 針治療 (鍼)が外された理由は、日本人は誰も科学だと思わない、支持者も懐疑者も「それ以外に基づく体系」と認識しており、それ自体が支持・不支持の理由になっているから、という理解でよろしいでしょうか?LR 2005年9月13日 (火) 07:37 (UTC)
- 上記提案分は、さきほど編集しました。
提案3
続いて、提案します。
- 削除(理由は個別に)
- cold nuclear fusion (CNF) - 常温核融合 (CNF):(実際に常温核融合が起こっているかどうかは別にして、)科学的な手法で研究されているようです。もし残すなら、1990年前後の特異な状況についてふれる必要があると思います。
- modern medical techniques and procedures that have not been validated by evidence-based medicine - 現代の医療技術・処置のうち根拠に基づいた医療の裏付けのないもの:”根拠に基づいた医療”の内容からみると、これ以外の医療全体を疑似科学というのは言いすぎの様に思えます。
- 削除(既に”しばしば疑似科学とみなされるもの”に近似のものがあるので)
- Freudian theory - フロイト説(精神分析学があるので)
- interpretation of dreams - 夢判断(精神分析学があるので)
- parapsychology - 超心理学
- ufology - UFO学
- -Dada 2005年5月6日 (金) 15:05 (UTC)
- 上記提案分は、さきほど編集しました。
提案4
続いて、提案します。
- ”しばしば疑似科学とみなされるもの”へ移動
- biorhythm - バイオリズム: 表記はバイオリズム
- chiropractic - カイロプラクティック(脊椎矯正療法):表記はカイロプラクティック(脊椎矯正療法)
- creationism - 創造論:表記は創造論(創造科学)でどうでしょうか?
- homeopathy - ホメオパシー(同種療法、同毒療法、同病療法):表記はホメオパシー(同種療法、同毒療法、同病療法)
- Social Darwinism - 社会ダーウィニズム:表記は社会進化論
- -Dada 2005年5月10日 (火) 17:14 (UTC)
ホメオパシーは自分が関わりがあるだけに、書いて欲しくないなあ--っ [Café] [Album] 2005年5月10日 (火) 23:19 (UTC)
- ホメオパシー以外の上記提案分は、さきほど編集しました。ホメオパシーについては、他の方の意見をお待ちします。
ホメオパシーはいれるべきだと思います。一定の知名度があり、科学性が議論になっているわけなのですので。ホメオパシーにっさんが「関わりがある」ことがホメオパシーが「しばしば疑似科学とみなされるもの」であるかどうかとどう影響するのでしょうか。--Aphaia 2005年9月13日 (火) 07:48 (UTC)
提案5
続いて、提案します。
- ”しばしば疑似科学とみなされるもの”へ移動
- cryptozoology - 未確認動物学:表記は未確認動物学
- facilitated communication - ファシリテイテッド・コミュニケーション :表記はドーマン法、ファシリテイテイド・コミュニケーション法(参考:奇跡の詩人)
- (補足:どうして突然ドーマン法が出てきたかについては、これらに間する日本小児科学会の発表[1]を参照して下さい。なお、このカッコ内は記事には書きません)
- -Dada 2005年5月15日 (日) 15:04 (UTC)
ドーマン法ですか。確かに、経験則的なところがあるという印象があります。私にはその程度しかわかりません。--っ [Café] [Album] 2005年5月16日 (月) 02:00 (UTC)
「しばしば擬似科学とみなされるもの」への項目追加の提案
2005年4月20日に、「しばしば擬似科学とみなされるもの」に3つの分野を加筆したのですが、疑似科学の定義の難しさや侮蔑感を与える危険性を考慮すると、まずはノートで合意を得るべきだったと思います。以下の3項目についてご検討ください。
アルファ波信仰:「アルファ波を出すことが体や心によい」とする考えのことです。「アルファ波が出るとエンドルフィンが出る」「アルファ波が出ると脳が活性化する」などとする本、広告、TV番組が結構あると思います。これらは一見科学であるように見えて、実は根拠が乏しく非科学的、ということでリストに載せてはと思いました。
「アルファ波信仰」という単語は、私の造語です。「アルファ波」自体はもちろん疑似科学ではないので、このような単語で表現しましたが、もっとよい語があればそうしてもよいと思います。あるいは項目の横に、註釈をつけて、
- アルファ波“信仰”:アルファ波が身体や心に与える効果を過大に評価する考え方のこと
などとしてもよいかもしれません。
ちなみに、森昭雄氏の「ゲーム脳の恐怖」も、「ベータ波が脳にとってよい状態だ」という誤った前提に基づいているらしいこと(この本を実際に読んだことはないのですが)が疑似科学といわれる理由なので、アルファ波信仰と共通しています。
「右脳」信仰:「右脳」という言葉は学術用語ではないのでカッコでくくりました。 確かに大脳の右半球と左半球の機能の違いは色々分かっています。しかし「右脳を鍛えると心がポジティブになる」などと、科学で判明している事実をはるかに超えて発展させた理論は、擬似科学と言えるのではないでしょうか?
また、これは私見なのですが、「アルファ波」「右脳」信仰ともに、日本特有または日本において顕著な文化だということはないでしょうか?googleなどで「alpha wave」などと引いても「アルファ波は健康によい」系の海外のページはヒットしません。ちょうど、英語版と日本語版のリストの違いが話題になっているのでタイムリーと思います。
催眠療法:精神分析学がリストに入っているのと同じ理由からです。つまり手技や理論が治療者の主観に基づいている割合が多いこと、再現性も乏しいことなどです。どちらかというと、精神分析よりもさらに擬似科学寄りな学問分野だと個人的には思います。--219.60.20.5 2005年4月22日 (金) 12:15 (UTC)
- アルファ波、右脳に関することを追加することには賛成しますが、言われている書き方で追加することには反対します。事実をそのまま表現するだけで充分であり、”信仰”などと脚色を加えて書く必要はないと思います。
- アルファ波に関する誤解、誤用
- 右脳に関する誤解、誤用
- (実際はリンクをつける)の様にしたらどうでしょうか?「脳科学の理解と適用を誤ったもの」の説明と重複する気もしますが、ゲーム脳とアルファ波が説明無しに並記されるのもよくないと思いますので。-Dada 2005年4月23日 (土) 10:50 (UTC)
私もDadaさんの提案された言い方の方がよい気がします。新たに造語をするのは百科事典として好ましくないことなので。ところで催眠療法の追加についてはいかがでしょうか?--219.60.20.5 2005年4月23日 (土) 14:21 (UTC)
- 方向はDadaさんの提案でいいのですが、「誤解」「誤用」というきめつけはPOV上まずいし、そもそも疑似科学はそこが明言できないから疑似科学ではないでしょうか。なまえはないですか? たとえば「アルファ波療法」とか「右脳・左脳論」とか。--っ [Café] [Album] 2005年4月23日 (土) 16:46 (UTC)
「”アルファ波、右脳・左脳に関するもの”→”それらアルファ波、右脳・左脳に関して誤解、誤用している”→それらは疑似科学」ではなく、「”アルファ波、右脳・左脳に関するもののなかにはアルファ波、右脳・左脳に関して誤解、誤用しているものがある”→それらは疑似科学」と言いたかったのです。この考えがPOVでしょうか?それとも表現方法がよくないということでしょか?表現方法の方であれば、「アルファ波に関して誤解、誤用しているもの」、「右脳・左脳に関して誤解、誤用しているもの」ではどうですか。それと、現在ある項目のなかで風水には違和感を感じます。上の方でしている議論を読みましたが、いまのままでは風水全体が対象の様に見えますので、こちらも補足の説明が必要ではないでしょうか?催眠療法に関しては、個人的意見は持っていますが、詳しい事実を知っているわけではないの百科事典上でどう扱うべきかについて表明すること出来ません。基本的には他の方の意見に従います。-Dada 2005年4月23日 (土) 21:47 (UTC)
- 具体的に何をさして言っているのでしょうか?
- たとえば、ある著書についていっているとします。そうすると、その著書を誤解、誤用と決め付けてしまうと、NPOVでないですね。また、誤解、誤用であることがはっきりしているものだとしたら「疑似科学」の定義に当てはまりません。--っ [Café] [Album] 2005年4月24日 (日) 04:20 (UTC)
っさんの言うように「誤解・誤用」であればその時点で疑似科学ではないのですね。何をさして言っているのかという点ですが、特定の著書についてというわけではなく、先日も書いたような「アルファ波は心にいい」とする著書や考えのことです。そのような考えが、正式に研究機関で研究されている学問分野として存在しているかどうかというと、微妙です。もちろんアルファ波を正統的な科学的手段で研究している機関はあると思いますが。主に、民間企業とか、非専門家の著書などに見られる考えだという点で、トルマリンやピラミッドパワーなどと似ているかもしれません。いずれにせよ、「一見科学のように見えながら学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たそうとしていないもの」という定義を満たす、「アルファ波療法」、または「アルファ波信仰」が存在しているのは間違いないように思えます。どんな用語で表現するのがよいでしょう?
- アルファ波のヒーリング効果
- 「右脳/左脳論」
などはいかがでしょうか?--219.60.20.5 2005年4月24日 (日) 09:40 (UTC)
- IP219.60.20.5の方(こんな言い方でいいのかな?)へ:ヒーリング効果だけとは限らないので
- アルファ波のヒーリング効果等
- の方がいいと思いますが、今のままでもいいかと思います。「右脳/左脳論」は変に説明を付けるよりその方がいいかもしれませんね。
- それでいいと思います。--っ [Café] [Album] 2005年4月24日 (日) 14:55 (UTC)
- っさんへ:前回の発言内容に疑問があります。科学的に間違った内容がかかれている著書に対して、誤解、誤用だと言うのはNPOVだと考えます。多分、言いたかったのは「科学的にグレーゾーンの内容がかかれている著書に対して、かってに間違っていると決め付けて誤解、誤用だと言うのはNPOVでない」という事ではないでしょうか?また、誤解、誤用であることがはっきりしていたとしても、その事が解からないことが人が科学的だと勘違いして影響を受けます。一般的な定義であっても、現在本文にかかれている定義であっても、科学的に否定されている内容が疑似科学から外れるということにはならないと考えます。例えば、「相対論は間違ってる」といった内容のものは疑似科学ではないのですか?(念のため質問にも答えておきますが、特定の本、商品等を意識したものではありません。)-Dada 2005年4月24日 (日) 12:04 (UTC)
むずかしいことを提起されますね.... まず、「科学的に間違った内容がかかれている」と決めることは誰にもできませんから、誤解、誤用だと言うのはNPOVではなくなるのではないでしょうか。ただし、「現在科学的手法とされている方法から外れている」ということはいうことができ、そういうものが科学を装っていれば「疑似科学」の対象になってきます。「誤解、誤用であることがはっきりしていたとしても、その事が解からないことが人が科学的だと勘違いして影響を受け」ることを避けさせることは、この百科事典の目的ではないと思います。この百科事典の目的は、できる限りさまざまな視点から物事を解説し、読者の判断を助けることだと理解しています。『「相対論は間違ってる」といった内容のものは疑似科学ではないのですか?』ですが、それだけではこの記事の疑似科学の定義にはまらないと思いますが。--っ [Café] [Album] 2005年4月24日 (日) 13:50 (UTC)
- 非常におかしな事を言いますね。『「科学的に間違った内容がかかれている」と決めることは誰にもできません』とありますが、科学とはそいいうものなのですか?誰でも調べればわかるものが科学ではないのですか?(もちろん現実的には金銭的時間的問題などで難しいのは事実ですが)また、私の言っているのは間違っていると解かるものもあると言う話で、全てのものについて判断できると言っているわけではありません。そこら当たりが話がずれる元でしょうか?それと、この話はもともとアルファ波と右脳・左脳の件についてどう表記したらいいいかだったと思います。私などに反論するより先にIP219.60.20.5の方に何らかの返事をした方がいいと思います。-Dada 2005年4月24日 (日) 14:46 (UTC)
- あっ、そうですね。IP219.60.20.5さんにお返事しておきます。
- 「非常におかしな事」とおっしゃいますが、科学がそういうものだから、疑似科学というグレーゾーンが出てくるのではないでしょうか?「誰でも調べればわかるものが科学」であれば、疑似科学という部分が出てくるはずがありません。--っ [Café] [Album] 2005年4月24日 (日) 14:55 (UTC)
理論上明らかになるはずのことでも、金銭・時間などの問題で現段階では不明なことが、科学の辺縁には沢山存在しているのでしょうね。そのグレーゾーンを白や黒に偏って主張する場合には、疑似科学とみなされるのでしょう。そのため、今「しばしば疑似科学とみなされる」リストに挙がっている項目も、将来的に研究がすすめば疑似科学の満たさなくなる可能性はあると思います。
ところで用語は「アルファ波のヒーリング効果等」と「右脳/左脳論」でいかがでしょうか?--219.60.20.5
- 「そのグレーゾーンを白や黒に偏って主張する場合には、疑似科学とみなされる」というのがいいですね。
- 「アルファ波のヒーリング効果等」と「右脳/左脳論」でいいと思います。--っ [Café] [Album] 2005年4月25日 (月) 15:51 (UTC)
一応、合意が形成されたとして、「アルファ波~~」と「右脳~~」は本文のリストに追加しておきます。もし問題があればまたご意見をいただくということで。催眠療法についても、問題提起してから数日経つのですが特に反論がないようなので、一応本文リストに追加しておきます。昔から骨相学とならんで疑似科学とみなされる代表だと思いますし、英語版リストにもあるようですので、問題はないと思うのですが。--219.60.20.5
皮膚呼吸
皮膚呼吸の記事上では「美容や発毛の分野でも宣伝文句として散見されている~疑似科学の一種とみなしてよいであろう」と記述されてますがこちらでは触れられてません。整合性を持たせる為にこちらに加えるか皮膚呼吸側の記事から削るかした方がいいと思いますがどうでしょう。個人的には確かに化粧品等の宣伝に効能の証明ができてないまま使われてるのを見た事がありますので「しばしば擬似科学とみなされるもの」に加えていいと思いますが。61.12.200.244 2006年3月23日 (木) 19:24 (UTC)
- 語法的に見て、「疑似科学の一種とみなしてよいであろう」から「しばしば擬似科学とみなされるもの」のひとつである、とは言えないと思いますが(つまり、現状で矛盾はないかと)。--っ [Café] [Album] 2006年3月24日 (金) 01:35 (UTC)
- というか疑似科学の例題を挙げるカテゴリが「しばしば擬似科学とみなされるもの」で全て一括されてしまってるのでそこに挙げるしか方法が無いんですよ、現状では。皮膚呼吸は例題の中の血液サラサラとマイナスイオンと同程度ぐらい民間の宣伝に誤用されてしまってるので皮膚呼吸を加えても問題ないと思いますが。61.12.200.244 2006年3月24日 (金) 09:33 (UTC)
絶対音感
絶対音感もりっぱにエセ科学している思うの、追加したいと思いますが如何か? 絶対音感を持っているので、風の音も音楽に聞こえますなんて説明がまかり通っています。 絶対音感の記事を正内容にするべく努力は別途しますが、世間的に絶対音感ホルダは 音楽の天才みたいな誤った認識が定着しつつあり、擬似科学の記事中で愚民を啓蒙する事は 有効であると思います。(以上、211.133.19.194 さん、2006-06-23 07:58:19)
愚民とは誰のことでしょう。誰かを愚民と規定することはウィキペディアの仕事ではありません。私は「絶対音感」がこの項目の定義にどのように該当するのかわかりませんが、説明していただけますか?--っ 2006年6月23日 (金) 09:56 (UTC)
社会進化論は疑似科学に該当しないと思うのですが
社会進化論は社会理論、またはその政策の一つですよね。普通に考えて疑似科学と到底呼べる物では無いと思います。当該記事を見ても竹中平蔵と小泉純一郎がこれに当たると断定していてまるで二人が疑似科学的であるかの印象を与えます。きちんと疑似科学と証明できる方の説明が無い場合は疑似科学の項目から削除します。220.150.235.79 2006年4月14日 (金) 20:11 (UTC)
加えて優生学もこれに当たらないと思います。これらは現在では科学的に否定されていますよね。ということは反証可能性があるわけですから、疑似科学とはいえず、ただ単に「誤った理論」にすぎないと思います。(もっとも現在でもこういう主張をする人は疑似科学者と呼ばれてしかるべきですが)。歴史的にみればそれなりの受け入れられる根拠、背景があったわけで、掲載するならその点について何らかの注釈が必要ではないでしょうか。--222.12.148.101 2007年2月2日 (金) 06:02 (UTC)
- 疑似科学の成立要件に関して意見の相違があるように見受けられますが。要は「反証され得ない」ことではなく、「科学を装う」ことでしょう。優生学は誠実に収集した結果的に誤ったサンプルを観察なり統計処理した結果なら「誤った理論」ですが、マトモにそんなことをなにもしてはいなかったので疑似科学なんですよ。(前にもいったことがあるように思いますが)逆に、結論だけはあってても科学的手続きを正しく踏んでない主張は疑似科学なんです。社会進化論だって、それが政策乃至社会理論であるうちは疑似科学ではないのですが、自然科学の分野の如き扱いを始めた者が出た時点で擬似科学になるわけです(そういう人がいるかどうかは私は存じません)。LR 2007年2月2日 (金) 08:25 (UTC)
遠赤外線
遠赤外線自体は立派に成立している科学ですが、最近巷で取り上げられている遠赤外線は疑似科学的な面を大いに含んでいると考えます。例えば岩盤浴での遠赤外線効果などはほぼ100%疑似科学的で、「しばしば擬似科学とみなされるもの」に加えるべきと思いますが、先にも書いたように遠赤外線そのものは疑似科学ではないために取り上げ方が難しくて悩んでいます。どなたか上手く表現していただけませんか?--Koumet 2006年11月6日 (月) 07:39 (UTC)
- だいぶ日にちが経っていますが書きます。遠赤外線は使い方を誤らなければ、温熱効果という一点のみでも人体への健康維持に充分有効に活用できると思いますよ。 Tosaka 2007年8月15日 (水) 14:36 (UTC)
- 何についての効能かをセットにしないと科学的か非科学的かは議論できません。遠赤外線→末梢血流増進までは科学です。「遠赤外線→(末梢血流増進)→末梢代謝が活発になる」であれば科学的に異論はないと考えます。「遠赤外線→(末梢血流増進)→健康が増進する」となると「健康」の定義がケースバイケースなので論理的に検証できません。「遠赤外線→(末梢血流増進)→成人病の治療になる」では再検証可能な研究発表が無いので明らかに疑似科学です。--あら金 2007年8月16日 (木) 13:05 (UTC)
ピップエレキバン
ピップエレキバンだけでもないのですが、磁気によって血行がよくなるだとか、肩こりが治るというのは、科学的にどうなんでしょうか。また、例えある程度の影響があったとしても、あの程度の永久磁石で体調に影響が(しかも好影響だけが)でるとは信じがたいです。Magnet therapyでも訳せば分かりますかねえ。--Tomzo 2007年1月10日 (水) 13:25 (UTC)
- 私も磁気治療機は疑似科学に含まれると思います。この種のモノの健康への作用機序が科学的に解明されたというニュースは聞いたことがありません。いまも疑似科学の項目に含まれていないのは少し驚きです。
- ここに磁気治療器を載せようと背景をnetで調べ始めたら「治療効果を裏付けするイギリスの実験」という情報を見ていまだ此処に載っていない理由が判った気がしました。原典に当たった訳ではないので知ったかぶり出来ませんが、現状では載せるのは断念しました。ところでラドン温泉・ラジウム温泉ってどうでしょう? Tosaka 2007年8月12日 (日) 06:15 (UTC)
- ちょっと調べていただければわかると思いますが、医学の分野で作用機序が不明であるが効果があるとして利用されてきたもの・いるものはいくらでもあります。(「機序は不明である」で検索することをお勧めします)作用機序が不明であるからといって疑似科学と断ずるのは、疑似科学であることの根拠の選択として間違った態度であると指摘せざるを得ません。Buyobuyo 2007年8月16日 (木) 03:39 (UTC)
- なるほど、作用機序が不明であっても効果があるものは、医学という科学において擬似的なものではないというのは、貴重な態度だと思います。私が疑似科学ではと疑ったのは、一時期、エレキバンの宣伝で、「磁力線が血行を良くする」というのを解説図付で説明していたからであり、それは説明になっているのかと疑問に思った次第です。多分、発売会社も最近は「原理が解明されて無くても効果があればいいじゃないか」という態度でこのような説明はやめているようです。ただ、私としてまだちょっと納得いっていないのが、この「効果がある」というのが事実であるかということです。肩こりは多分に主観的なもので、それを意識するか否かは、本人の心理状態に依存するものが大きいのではとも思います。そういう状況では、磁気治療器というのは、一種の「プラシーボ」ではないかという疑いをぬぐいきれないのです。磁気治療器の効果については、販売会社からのレポートは数多いのですが、中立的な立場での検証結果があればご教示いただければと思います。--Tomzo 2007年8月16日 (木) 19:18 (UTC)
- 反応が遅れて申し訳ないです。貴重な態度、ではなく、特に医学においては、現場はそうあるべきであるし、実際のそうであるということを、ご理解いただけたらと思うわけです。外部から医学分野について我々が評価を下す場合、そういう現場のあり方を踏まえて判断し記述することを心がけるべきだと思います。疑似科学批判は疑似科学そのもの同様に大衆受けをするもので、疑似科学批判自体が大衆を扇動してしまい、科学政策をゆがめるなどの科学活動への悪影響のもととなりかねない側面があると私は常々危惧しております。そういう意味から、慎重に、厳格に、疑似科学であるという「黒」の判定はなされるべきと考え、一言させていただきました。Buyobuyo 2007年10月11日 (木) 01:38 (UTC)
おそらく「載せる」「載せない」で一番活発に議論されているセクションのその、セクション名「その他」を「疑似科学とみなされる事が多いもの 日本特有のもの」としました。「マーチン・ガードナーが『奇妙な論理』で挙げているもの」などを「疑似科学とみなされる事が多いもの 日本に限らないもの」でくくりました。たぶんどなたも反対はないと勝手に判断して、変えましたので了解できない方はお知らせ下さい。
なおこれにあわせて、「日本特有のもの」に含めた以下の項目を「日本に限らないもの」の方へ移動しようと思います。この件でも了解できない方はお知らせ下さい。
タキオン、フォトンベルト、古代宇宙飛行士説、サイ科学、精神分析学、社会進化論、偽言語比較論、黒い山葡萄原人
Tosaka 2007年8月15日 (水) 15:03 (UTC)
- ここで書かずに下で下記のように書かれてRevertされていました。
- (以下原文)
- ==日本固有のもの==
- 疑似科学の例に「日本固有のもの」というセクションが出来ていましたが、
- 日本固有でないものも混じっていた為もとに戻しました。
- 219.35.139.100 2007年8月16日 (木) 10:31 (UTC)
- どうやらお気に召さなかったようですので、Revert合戦はせずにあきらめます。220.211.0.208 2007年8月27日 (月) 18:40 (UTC)
比較言語学、人類学の手順に則っていない「日本語、日本民族研究」
- 前者の場合、例えば、明治期から議論されているにもかかわらず未だ結論を見ない「日本語と朝鮮語の親族関係」をあたかももう結論がでているかのように扱い、「万葉集は朝鮮語で読める」とか「奈良時代まで日本人と朝鮮人は通訳なしで会話できた」などの説です。これは、いくつかの根拠を挙げて、あたかも論理立てて証明しているように見えますが、ほとんどのものが比較言語学という科学的手法に則っていないので、疑似科学に該当すると思います。
- 後者の場合、日本神道とユダヤ教で類似する部分を根拠に日本人とユダヤ人が共通の祖先を持っているという「日ユ同祖論」などです。これも文化人類学や生物学的な研究を無視しているので疑似科学に該当すると思います。(130.158.46.82 2006年6月20日 (火) 05:20 (UTC))
ゲルマン諸語における「グリムの法則」などを曲解して、日本語と朝鮮語などを無理に同族にする「研究」のことですね。
極端な例を挙げると日英語同族論までありますね。
- kill = 斬る
- ball = 放る
疑似比較言語学とでも名付けましょうか。(130.158.152.132 2006年6月21日 (水) 03:36 (UTC))
偽言語比較論を追加しました。221.185.253.136 2006年9月17日 (日) 04:40 (UTC)
疑似科学#疑似科学批判の信頼性の書き換えについて
標記の件について、私が「NPOVでない(疑似科学を悪いと決めつけている):ノートでの議論のない大幅な書き換え」としてrevertしたところ、他の方から「より妥当な記述」として逆にrevertされましたので、私の考えを書いておきたいと思います。
問題に考えたのは、次の2文です。
>誤った「批判」は、科学的思考の妨げであるだけでなく、巧妙な外見を持った疑似科学を『現代科学という暴君に弾圧される殉教者』に仕立て上げてしまう恐れがある。
>なお、少なくない疑似科学批判者や懐疑論者により、大槻義彦の言動がこのような安易な「批判」であるとの指摘がなされている。
- 「巧妙な」は、あまりいい意味に使われる言葉でありません。したがって、疑似科学が科学のようなな装いを持つことを悪いことと決めつけているように思います。
- 「殉教者に仕立て上げる」とは、殉教者でないという決めつけであるように思います。
- 「大槻義彦の言動」のように、個人名をとりあげ、その行動に対する指摘があると言っているにもかかわらず、その根拠が示されておらず、またその反論も書かれていません。
以上です。--っ [Café] [Album] 2005年9月10日 (土) 08:04 (UTC)
- 科学でないものが、科学であるかのような装いを持つことは悪いことに決まっています。冒頭定義にも有るように、科学的方法を満たそうとしないものが疑似科学なのですから。殉教者うんぬんに関してはPOVとして削除でよいかと。大槻氏の行動に関しては僕も安易な批判だとは思いますが、記述を残す必要があるとまでは思えません。yhr 2005年9月11日 (日) 06:15 (UTC)
- 「悪いことに決まっています。」と言い切られてしまうと、NPOVじゃないんじゃないかと危惧します。冒頭定義には「これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。」としています。「装いを持つ」ことも、「科学であるかのように社会に誤解される」ことについても、「悪い」はもちろん「問題がある」とも断定していないところにNPOV上の工夫があるんですが。--っ [Café] [Album] 2005年9月11日 (日) 12:36 (UTC)
- 実を言うと、冒頭定義に関しても、「科学ではないものが科学であるかのように装うことが問題であるといわれる場合がある。くらいのことは言ってもいいと思っています。yhr 2005年9月11日 (日) 12:52 (UTC)
- うーと、こういうのはどう?「科学的であるということに価値を見出す立場からは、その実体として科学的方法論にのっとっていない考え方が、科学的であるかのように装うこと自体が問題であるとされている。」
- いずれにしても、今の記述は変に回りくどくて意味が無いと思う。yhr 2005年9月11日 (日) 12:58 (UTC)
- まず後者は、批判的な立場を「科学的であるということに価値を見出す立場」に限定しているのが、おしいところだとおもいます。現実に社会一般の風潮は批判的なんですから。前者は「科学ではない」と言い切ってしまっていますよね.....--っ [Café] [Album] 2005年9月11日 (日) 23:23 (UTC)
- まず、疑似科学は科学ではないのはこれは立場によらない事実でしょう。それが前提。もし科学なら「擬似」なんてつける必要ないもの。
- 後者については、ちょっと妥協しすぎたかな。yhr 2005年9月12日 (月) 00:21 (UTC)
私もyhrさんに全く同感で、疑似科学は科学では無い(擬似)というのが定義の大前提である以上、科学ではないものが科学のフリをするのは偽装であって悪いことに決まってると思いますが。なんでこれがPOVになるのか理解不能です。219.102.71.160 2005年9月12日 (月) 03:34 (UTC)
科学ではないことをすべての人が認めているわけではないから「疑似」なのであって、科学でないとすべての人が言い切れるものは単なる非科学です。また、偽装を悪いと決めつけるのは、百科事典の使命ではありません。悪いと思う人もいれば、いいと思う人もいることを紹介するのがNPOVです。--っ [Café] [Album] 2005年9月12日 (月) 05:35 (UTC)
- それはまさに陰謀論や時期尚早論に逃げる擬似科学の言い分そのもので、まったく同意できません。科学と擬似科学の差異は、科学の定説と異説の差とは決定的に異なり、多数決で決まるものではありません。確かに善悪の問題ではありませんが、厳然と真偽の問題で、それはきわめて客観的なものです。LR 2005年9月12日 (月) 05:54 (UTC)
- あの、百科事典のあり方について言っているのです。ことなる立場があれば、それに優劣を付けるべきでない、というだけです。--っ [Café] [Album] 2005年9月12日 (月) 06:04 (UTC)
- 多分、「悪い」とか「問題である」とかの表現に過剰反応されてるんだと思います。たしかにそのような予断的言辞は百科辞典的からは省かれるべきでしょう。しかし、客観判断可能なものを遭えて裁定せず「優劣をつけない」と嘯くのは「擬似NPOV」です。LR 2005年9月12日 (月) 06:44 (UTC)
- あの、百科事典のあり方について言っているのです。ことなる立場があれば、それに優劣を付けるべきでない、というだけです。--っ [Café] [Album] 2005年9月12日 (月) 06:04 (UTC)
- っさんの言う疑似科学の定義は本項に書いてある疑似科学の定義とはかなりかけ離れてると思うのですが、定義そのものも書き換えるべしという主張なのですか。219.102.71.160 2005年9月12日 (月) 05:46 (UTC)
- 確かにそうですね。混乱させてすみません。しかし、「疑似科学は科学では無い」とも書いていません。十分に科学的とされる条件を満たしていないとしているだけです。--っ [Café] [Album] 2005年9月12日 (月) 06:04 (UTC)
- 「満たしていない」のは未科学、「満たそうとしない」あるいは「満たせる道理がない」のに「満たしている不ふりをする」が擬似科学です。傲慢もしくは意固地な擬似科学者Aの誠実な弟子Bが、Aのぶち上げた擬似科学を異端科学、あるいは科学まで昇華してAの主張と同じ結論を証明する事も起こり得るかもしれませんが、それは科学者Bの大いなる業績であって「Aが正しかった」とはみなされません。あくまでもAの代では擬似科学です。LR 2005年9月12日 (月) 06:44 (UTC)
- 確かにそうですね。混乱させてすみません。しかし、「疑似科学は科学では無い」とも書いていません。十分に科学的とされる条件を満たしていないとしているだけです。--っ [Café] [Album] 2005年9月12日 (月) 06:04 (UTC)
LRさんにまとレスします。たとえば、個人的な妄想とか、誰も相手にしない突飛な説を、一般に信じられている説と同等に扱ったら疑似NPOVでしょう。また、多くの人が信じていることと少数が信じていることを同等に扱う必要もありません。しかし、少なくともいくらかの人たちがその考えを支持していて(疑似科学はそうです)、それを紹介しようとするならば、その少ない人数がそれを信じているということをただ客観的にありのままに書けばいいのであって、それを正しいとか、間違っているとか、判断を付け加える必要はないのです。もしそれをしようとするのならば、それを証明する必要があり、それは百科事典の使命ではないでしょう。正邪を決めるのは読者です。
意固地な疑似科学者Aの話はおもしろいですね。たしかに、Aの説は疑似科学です。しかしながら、Bによって正しいことが証明されたなら、Aの説は疑似科学でありながらにして正しかったわけです。また、もし、Aがとった方法そのものがBによって科学的な方法であったと証明されたならば、Aは疑似科学ではなかったわけです。--っ [Café] [Album] 2005年9月13日 (火) 06:12 (UTC)
- Aの説に関しては、仮に正しかったとしても単に結果というか予言があたっていただけで、その方法論という点についてはやはり科学ではないというのが前提でしょう。Aの方法が科学的であったならば、その時点において異端だとみなされることはあっても、疑似科学であるというレッテル貼りは単なる誤りです。yhr 2005年9月13日 (火) 12:17 (UTC)
Wikipediaは掲示板とは違うので、「自分の思ったこと・考えたこと」を気軽に書き込まないようにしてほしいと思います。特に過去にも何度かこのような指摘を受けている筆者の方には自重して頂くように強くお願いします。220.150.96.57 2005年9月10日 (土) 20:03 (UTC) 保護依頼が出されましたが、できたら、ウィキペディアの基本方針に反しているという指摘のない版で安定した版がありますので、その版で保護していただけると嬉しいです。こだわりませんが。--っ [Café] [Album] 2005年9月11日 (日) 23:23 (UTC)
擬似科学が悪い、と考える人が一定数いる以上、そのことは書かれるべきだと考えます。それが情報をくまなく提供するということです。何かを問題であるとWPがいいきればそれはNPOVから外れますが、それを問題視する人がいることすら触れないのはNPOVではなく、別の方向からのPOVです。--Aphaia 2005年9月13日 (火) 07:54 (UTC)
- 疑似科学が悪いと考える人が99%で、そうでもないと考える人が1%だとして、それをそのように書くことは正しいことと思います。しかし、「多いだろう」「多いはずだ」という憶測や、「私の回りはそういう人ばかりだ」という個人的な理由で書かれることはいいことではないと思います。また、今回の私の指摘のひとつは、「巧妙な」という言葉を使うことなどにより、言外に悪いというニュアンスを込めてしまっていることです。この辺、微妙なところだと思いますが、みなさん、どのようにお考えなのでしょうか。--っ [Café] [Album] 2005年9月13日 (火) 23:18 (UTC)
- 本稿執筆の部外者ですが、っさんの発言には納得できない部分があります。百科事典というものは、その成り立ち(百科全書)からみても本質的に合理主義的・啓蒙主義的特徴を帯びざるを得ません。端的に言うなら、知性や悟性によって迷信や無知蒙昧と戦うことを学習者に教えるということです。ですから、オカルトも疑似科学も何らかの部分で非科学的ないしは非合理的側面を持つ以上、それが科学的に見て誤っているとか悪いと断言するのは、イメージ付けや読者の誘導などではありません。主観的に見て悪いとかおかしいの問題ではないからです。こういう意味で、百科事典が価値や判断の基準を曖昧にすることはないはずですが(むしろ本当に問題なのは、タレントやミュージシャンに関連する項目で、「○○は××に関しては天才、△△については鬼才」などの「主観的な価値の押し付け」が間々みられることです)。それに、っさんがなさっているのは、ほとんど言葉狩りや自己検閲のレベルであると懸念せざるを得ません。間久部緑郎 2005年9月14日 (水) 00:21 (UTC)
- 現在の「科学」「科学的方法」も1つのパラダイムに過ぎないのですから、過度に絶対視するのは逆に科学的な態度ではないように思います。(妥当性が高く、広く受け入れられていて、支配的な存在のそれではありますが。)従って、科学的な方法によらないものを科学的であるかのように装うことや、そのように受け取られることが問題、との趣旨の、っさんの記述は適切と思います。現在科学的とされている観点から見て誤っている、はともかく、悪い(?)というのは「主観的に見」た結果に他ならないのではないでしょうか。160.185.1.56 2005年9月14日 (水) 03:55 (UTC)
- 問題をすりかえないでください。「現在科学的とされている方法論に照らして論法が誤っており、多くは結果も実証と食い違う」のが疑似科学の問題であり「現在科学的に根拠があるとされている学説を過度に絶対視して異論を誤っていると決めつける」問題など、疑似科学の著作のなかでしか起こっていません。詐術である疑似科学を説く疑似科学者には悪意がありますから、それなりの記述をされるのが適当です。「悪意があると」限ります、なぜなら悪意がなければそれは「科学者の提唱する未科学」であり、それらは証明がされていないことを自ら告白しますし、批判を受けた後の態度や次の著作からも確実に見分けられますLR 2005年9月16日 (金) 12:16 (UTC)。
- 本稿執筆の部外者ですが、っさんの発言には納得できない部分があります。百科事典というものは、その成り立ち(百科全書)からみても本質的に合理主義的・啓蒙主義的特徴を帯びざるを得ません。端的に言うなら、知性や悟性によって迷信や無知蒙昧と戦うことを学習者に教えるということです。ですから、オカルトも疑似科学も何らかの部分で非科学的ないしは非合理的側面を持つ以上、それが科学的に見て誤っているとか悪いと断言するのは、イメージ付けや読者の誘導などではありません。主観的に見て悪いとかおかしいの問題ではないからです。こういう意味で、百科事典が価値や判断の基準を曖昧にすることはないはずですが(むしろ本当に問題なのは、タレントやミュージシャンに関連する項目で、「○○は××に関しては天才、△△については鬼才」などの「主観的な価値の押し付け」が間々みられることです)。それに、っさんがなさっているのは、ほとんど言葉狩りや自己検閲のレベルであると懸念せざるを得ません。間久部緑郎 2005年9月14日 (水) 00:21 (UTC)
これまでのところでは、私の2005年9月10日 (土) 08:04の指摘の3点については特に反対がでていないように思うのですが、よろしいでしょうか。その上で、「疑似科学は悪いと書いて当然」という意見をいただいている、というところでしょうか?--っ [Café] [Album] 2005年9月16日 (金) 11:19 (UTC)
- あなたの書き方が疑似科学側の論調そのままだという批判は受け止めておいでなのですよね? 科学的かどうかというのは現在の科学のパラダイムに照らしてそうなので、現在の科学のパラダイムが科学的手法とみなさないものは当然に科学ではありません(これは特定パラダイムの中心的理論が否定されている場合とは別の問題です)。そして疑似科学がなぜ「擬似」なのかといえば、その方法の共有がなされていないからです。それに対して、IP氏のいう「現在の「科学」「科学的方法」も1つのパラダイムに過ぎないのですから、過度に絶対視するのは逆に科学的な態度ではないように思います。」というのは、まったく応援になっていません。科学を絶対視するかどうかと、何かが科学に属するかどうかを混同しているため、論理がゆがんでいるのです。何かが科学に属するかどうかということと、科学が方法として優れているかどうかとは別です。そして科学とパラダイムを共有しないにもかかわらず、科学を自称するまたはそのように思われるということが疑似科学の本質なのですから、そのようなものであるということを定義では書くべきであり、そして、そのような主張が意図的になされるなら、それは虚偽であって「わるい」というような仕方で倫理性を問われても当然かと思います(一部のSkeptistsのなかにはそういう人もいますね。)--Aphaia 2005年9月16日 (金) 11:30 (UTC)
- っさんの判断は理解に苦しみます。「疑似科学は悪いと書いて当然」という意見は三点の指摘の内、第一と第二に関する明白な反対意見と読まれるべきでしょう。私も「巧妙」と「殉教者に仕立てあげる」の記述に関しては妥当であると判断することを表明します。大槻教授の件については、確かに誰もなにも言っていませんし、私も態度を保留します。LR 2005年9月16日 (金) 12:16 (UTC)
- おそまきですが、差し戻しをかけたものです。第一は複数の方から明確に「悪いに決まっている」と反論されています。第二も修辞として妥当な範囲内と私は考えます。第三はとくに個人名をここでださなくてもよいので、私としては強い意見はありません。
- 上で、っさんは盛んに「百科事典的」「NPOV」ということをいっていますが、誤解があるように思います。百科事典というのは学の立場から事象を記述するものです。NPOVのドキュメントでも、なにもかもを同じ比重で扱うとはいっていませんし、NPOVは非学術的記述を許容するためのものではない、と述べています。--Aphaia 2005年9月16日 (金) 17:11 (UTC)
- 疑似科学批判の信頼性の書き換えについて、Wikipedia:論争の解決における、第三者を交えての議論を行っているようですが、どうも合意に至る兆しが見えていないようで、STEP3の投票にうつるべきだと思われます。
- Wikipedia:チベット自治区/投票のように、編集合戦の当事者であるっ氏と、Aphaia氏かNiKe氏、あるいはノートで反論を出しているyhr氏が文章案をだして投票にかけるというのはどうでしょうか。--Snow steed 2005年9月16日 (金) 17:35 (UTC)
- 私は投票に異議ありません。ですが、そもそも私の文面ではないので、元の文面を作った方が参加してくださるとなおよいかな。アイディアを出すことはよろこんでいたしますが、ここの議論でも活発に発言しておられて文案の提案もされたYhrさんが主導してくださると、よりよいかなと思います。--Aphaia 2005年9月16日 (金) 17:46 (UTC)
ここに書かれている方は、当然にWikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかを読まれており、ここでの議論が、この箇所の解釈などに関わることがらを扱っているということを扱っているのだということを認識されていると思います。そこを押さえた上で、投票に反対はしませんが、本音を言えば、私は投票してまで決着を付けたいと思うほどの執着はありません。
また、Aphaiaさんの2005年9月16日 (金) 11:30 (UTC)の書き込みについて、おおむね同意しますが、最後の『「わるい」というような仕方で倫理性を問われても当然かと思います』という部分は私は考えが違います。--っ [Café] [Album] 2005年9月16日 (金) 23:38 (UTC)
- 投票に関しては、僕はねっからのめんどくさがりの上に、投票に関する議論中にずっとフォローしつづけられる保証が無いので、だれか信頼できる人がイニシアチブを取ってくれるなら、選択肢の文面等に関しては協力します、くらいの気持ちです。
- あと、問題なのは科学と疑似科学の線引きというよりは、(本文中で触れられている意味における)プロトサイエンスと単なる非科学と疑似科学の関係のような気がしますします。yhr 2005年9月17日 (土) 04:44 (UTC)
- この問題に関しては、っ氏がご自分の支持する版がより妥当であると主張し、私を含む他の執筆者/読者が、一部については別の版がより妥当であるとされているというのが現状だと受け止めています。っ氏が投票に消極的であるというなら、っ氏の差し戻しを再度差し戻した上で、大槻氏うんぬんの記述のみを除去する、という解決もあるかと存じます。--Aphaia 2005年9月17日 (土) 04:59 (UTC)
- 私はその解決法で構いません。この件について検討をしたこと自体が大切だとも思っています。--っ [Café] [Album] 2005年9月17日 (土) 08:05 (UTC)
いま保護の対象になっている版は、差し戻しをする以前の版ですね。っさん以外に、大幅な書き直しを伴う版を提唱される方はいらっしゃいますか。いらっしゃらないようでしたら、上に提案した線で合意ができたとして、保護を解除していただくようにお願いしてはどうかと思います。逆に現行の版では問題があると考える方は文面のご提出をお願いします。その場合は、投票でいきましょう。--Aphaia 2005年9月17日 (土) 14:34 (UTC)
- ではその方向で。できれば大槻氏に代わる安易な批判の実例があるといいんだが。yhr 2005年9月17日 (土) 16:30 (UTC)
- ヴェリコフスキーにかえって同情票を集めてしまった、米国科学者達による「衝突する宇宙」出版阻止と否定運動の事例はどうでしょう。LR 2005年9月17日 (土) 17:08 (UTC)
- ヴェリコフスキー事件は擬似科学批判として例示する必要があるでしょうね。ただ「稚拙な擬似科学批判」ではなく「強硬な姿勢の擬似科学批判」による弊害の例だと思いますので、大槻教授の例の置換えではなく別の例になるのではないかと思います。--Y tambe 2005年9月18日 (日) 03:12 (UTC)
- ヴェリコフスキーにかえって同情票を集めてしまった、米国科学者達による「衝突する宇宙」出版阻止と否定運動の事例はどうでしょう。LR 2005年9月17日 (土) 17:08 (UTC)
私も反擬似科学の立場にありますが、NPOV的に「敵のために書く」という観点から、この節において書かれるべき内容を考えてみますと、(1)擬似科学支持(擁護)の立場からの「擬似科学批判」批判、(2)擬似科学批判の立場からの「稚拙な擬似科学批判」の批判、という2つの観点からの記載が必要だと思います。現在議論されている方針では、後者の観点のみが「どういう立場からの観点なのか」が書かれないまま記載されており、POV的な文章になる可能性があるのではないでしょうか。「悪い」というのも、「『多くの科学者や(いわゆる)知識人が』擬似科学が科学を装って社会に広まることを『悪い』ことだと考えている」という風に、どういう立場からの観点かまでを明記する必要があるでしょう。っさんが感じているPOV的な要素は、それで解消しないでしょうか。また、もちろん、(1)の立場からの批判、反論には詭弁を弄したものなども多いですので、それらを過度に擁護することがないような配慮(あからさまな詭弁を広めないよう、必要に応じて再反論まで記述するなど)は必要だと思います。
このような観点から、現在の版は書き直しが必要だと思っていますので、とりあえず提唱しておきます。ただし、これらの加筆は現在の版を下敷きにして進めるのが可能だと思いますので、実際の作業の方向性としてはAphaiaさんが提示されている方針に同意します。
また、っさんが支持した版にある内容については、擬似科学批判擁護の立場からというよりも、もっとメタな科学哲学的な立場から「擬似科学と何か。多くの人はプロトサイエンスなどの周辺領域と可分だと思い込んでるが、本当にそうなのか」という問いかけをするものだと思います。実際、これらの線引きに混乱が現実に存在していることが、ここでの議論からも判ると思います。振り返ってみると、(特に安易な)擬似科学批判者が、これらの周辺領域との可分性を考えないで、例えばプロトサイエンスを擬似科学として批判するということも一つの擬似科学批判の問題点として挙げる価値はあるのではないでしょうか。つまり、(2)には「稚拙な擬似科学批判」の問題点として、このような内容が追加できると思います。あるいは(3)としてプロトサイエンス研究者などからの観点から「擬似科学批判」の問題点、という内容も盛り込んでもよいかもしれません(ただしAphaiaさんが言っているようにNPOV的バランスを考えると、(3)の形では大きく取り上げすぎになりかねないかも)。--Y tambe 2005年9月18日 (日) 02:05 (UTC)
- 擁護/批判という二項対立にはなっていないので、「疑似科学をめぐる言説」というような形でそれぞれを紹介してはどうでしょうか。
- 疑似科学をめぐる言説は、多く疑似科学であるとされる論ないし仮説へ擁護と批判というような捉え方をされがちである。しかし実際には、疑似科学をめぐる言説自体も議論の中で反省の対象とされており、それぞれの言説の科学ないし科学哲学的正当性が問われることがしばしば生じる。また中心的な科学理論から外れる周辺的なものの位置づけをめぐっても、論者によって多少の混乱がみられる(このへん、実態は知りません)。とくに、プロトサイエンスなどの周辺領域の位置づけが問題となりえる。また科学哲学など思想として科学を研究する隣接領域が疑似科学を対象にすることにも批判的な立場をとる論者もいる。
- 『衝突する宇宙』がウニヴェルシタスから出たことそのものを「大学出版会から出ることで権威付けされる」のように批判したひともいました。。
- 批判的な立場をとる言説の間でも、批判としての現実的な有効性を問う形で批判が行われることがある。
- 疑似科学をめぐる言説は、多く疑似科学であるとされる論ないし仮説へ擁護と批判というような捉え方をされがちである。しかし実際には、疑似科学をめぐる言説自体も議論の中で反省の対象とされており、それぞれの言説の科学ないし科学哲学的正当性が問われることがしばしば生じる。また中心的な科学理論から外れる周辺的なものの位置づけをめぐっても、論者によって多少の混乱がみられる(このへん、実態は知りません)。とくに、プロトサイエンスなどの周辺領域の位置づけが問題となりえる。また科学哲学など思想として科学を研究する隣接領域が疑似科学を対象にすることにも批判的な立場をとる論者もいる。
- こんな感じで(粗いですが)。--Aphaia 2005年9月18日 (日) 10:13 (UTC)
Wikipedia初心者で、どこに書けばいいのかよくわからないのでこちらに書かせていただきます。この項目全体において、『疑似』と『擬似』という言葉が両方出てきますが、 これは意図的に使い分けされておられるのですか? もしそうでなければ統一した方が良いかと思いまして。 初歩的な質問で恐縮です。村雨
「Category:仮説」 を新設しました
上記カテゴリは「疑似科学」の項目と多少なりとも関連があると思いますのでここでも告知させていただきます。どうぞ皆様ご活用下さいませ。 --Savsta 2006年10月6日 (金) 03:28 (UTC)
「擬似科学と「正しい」科学の境界線」の内容について
境界設定問題に関する記述は欠かすことができないものと思いますが、内容に不足があると感じます。特に、論理実証主義からの境界設問題の学説史的記述は大いに問題があります。ばっぽてきな書き換えが必要では?Buyobuyo 2007年3月19日 (月) 02:08 (UTC)
インチキ科学論文も疑似科学
疑似科学の定義を冷静に受け止めれば、インチキ科学論文も疑似科学だな。 疑似科学の定義は「学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う」だ。
インチキ科学論文というのも、
- 学問、研究 のうちである。
- その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしている。
- 科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていない
以上3つを満たし、完全に合致している。
つまり、ヘンドリック・シェーンや多比良和誠や黄禹錫(ファン・ウソク)が書いた"科学論文"も疑似科学だ。
いかにも疑似科学らしい疑似科学(例えば「水からの伝言」みたいなもの)ならば、自然科学の教育を大学院等で正式に受けている者ならば、ちょっと検討すれば、すぐに疑似科学と判定できるが、ヘンドリック・シェーンや多比良和誠や黄禹錫のような者の手による疑似科学のほうは、数段やっかいだ。誰かが偶然に発見したり、内部告発する人が出てくるまでは、科学のプロでも騙されつづける可能性がある。
冷静に考えれば、インチキ科学論文として今までに発覚したものは「氷山の一角」で、全体のごく一部なのでは? 発覚していないものが実際どれだけあるのか?考えるだけでも恐ろしい。 --LoginogboiN 2007年3月24日 (土) 16:13 (UTC)
- それらは、一般に「疑似科学」には分類されません。不正が紛れ込んでいるものの、通常認められているプロセス自体は経ているところが違っています。確かに本記事の冒頭部からすれば当てはまってしまいますが、記事の定義では「疑似科学」とはなんであるかについて完全に記述できていないと御考え下さい(間違っているわけではないが、不完全)。例えるなら、横領は「犯罪」ではあるものの「窃盗」ではない、というようなものです。 -- NiKe 2007年3月24日 (土) 23:01 (UTC)
- 私の直感もそれは疑似科学じゃないと告げますね。偽りのデータに基づき偽りの結論を導く例は、手順や展開自体は正しいので正規の査読をすり抜ける訳です。それは「正規の科学の虚報」です。論理展開が繋がってなかったり他の可能性の検討が不十分だったりして査読で撥ねられ得るもののうち、強引で悪意的なものが疑似科学ではないかと(善意的なものが未科学でしょう)。LR 2007年3月26日 (月) 07:57 (UTC)
- 通常の科学の営みの枠内で行われる不正ですから、それを疑似科学とするのは疑問です。逆に科学の枠内で行われていることだからこそ、科学的検証のプロセス等で不正が暴かれた訳です。(3)に合致すると主張されていますが、それぞれは、不正を行ったものは(3)の完全性を偽装しているわけですから、(3)にそのまま合致するわけではないでしょう。Buyobuyo 2007年3月27日 (火) 03:14 (UTC)
日本固有のもの
疑似科学の例に「日本固有のもの」というセクションが出来ていましたが、 日本固有でないものも混じっていた為もとに戻しました。
219.35.139.100 2007年8月16日 (木) 10:31 (UTC)
「その他」っていう項目名はやめましょう
疑似科学のページをよく見るのですがいつも「その他」の所を見ています。他のユーザーもここを一番興味あるんじゃないかと思っているのですがどうでしょうか?それで、「その他」っていう項目名はやめませんか?私が以前勝手に「その他」からセクション「擬似科学とみなされる事が多いもの 」の頭に移動する編集をしたところ理由も無くRevertされていました。一度書いた自分の記事に手を入れられるのを嫌う気持ちは判らなくもないのですがやはりWikipediaでは記事を固定しておくのは許されないでしょう?
提案に戻りますが、 「マーチン・ガードナーが・・・」「英語版の疑似科学例より 」「疑似科学とは言い切れないが・・・」といった内容よりも日本の現在の疑似科学リストの方が明らかにこのページでは重要だと思うのです。ここのノートで擬似科学の定義とか話されている方にとってはおそらくページ後半のリストはそんなに関心が無いかもしれませんが、私から見れば前半の定義付けより、後半の「その他」に載っている何が疑似科学ってされているのかを示すリストのほうが絶対重要です。「マーチン・ガードナーが・・・」「英語版の疑似科学例より 」「疑似科学とは言い切れないが・・・」では身近な現在進行中の問題ではないのに対して、「その他」で示されている今の日本の疑似科学の問題は、疑似科学のページを読みに来たユーザーにとっても興味を引く点だと思うのです。 その重要な項目の名前が「その他」ではどうにも美しくないので、これをやめて、セクション「擬似科学とみなされる事が多いもの 」の頭に移動するというのはいかがでしょう? Tosaka 2007年8月27日 (月) 17:52 (UTC)
出典は原則的に書籍であるべき
Wikipediaでは、ネット上の記事は原則的に出典とすることはできません。(書き手の都合でいつ内容が改変・改竄されるか消されるかわかったものではなく、時間とともに検証不可能になってしまうため。その他にも様々な意味で)
「ニセ科学批判」という節が立てられ、まるで出典であるかのように書籍名の形式で以下の名称が2つ挙げてあるけれど(『....』や..著という表現は書籍の表示に使うものです)、そんな書籍、本当は存在していないのでは? 存在するならISBN番号挙げられるかな?
- 『「ニセ科学」入門』(菊池誠著)
- 『ニセ科学の定義と判定について考える』(天羽優子著)
実際は、ネット上のいいかげんな文章でしょう。ネット上の文章に頼って書いたと思われる部分をとりあえずコメントアウトします。まともな書籍・印刷物は多数出版されているので、そちらを出典として書くべきです。図書館で無料で借りられますよ。出典の掲載ページも表示するようにしてください。 --Lacunar 2008年1月6日 (日) 05:01 (UTC)
- 参考までに情報を載せときます。
*「「ニセ科学」入門」菊池誠 大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻広域文化形態論講座文化基礎学専門分野共同研究「科学と社会」(代表者: 溝口宏平)報告書(平成16年2月)掲載:ニセ科学入門 、
*ニセ科学の定義と判定について考える、
*Wikipedia:信頼できる情報源(公式な方針あるいはガイドラインの草案で現時点ではまだ拘束力はない)--Izayohi 2008年1月6日 (日) 06:03 (UTC)
疑似科学と科学的検証の流れ
(というものを作ってみました。掲載前に査読をお願い致します。なお太字斜線の部分は自信がない箇所で、特にアドバイスいただければと思います。この括弧で囲まれた部分は掲載されません。)
検証前
人は、ある仮説が科学的に正しいかどうかを検証する前に、その仮説がそもそも検証可能なのかどうかを確認しておかねばならない。近時最もよく知られているのは、カール・ポパーの反証可能性である。反証可能性とは、その仮説はどのような事実が生じた場合に間違いだと言えるのかを示すことが可能であることを言う。反証可能性を持たない仮説は、事実との照合による真偽の確認が不可能であるから、科学的な議論から除去される。以下、この段階で除去された仮説を非科学的仮説と呼ぶことにする。この点、反証不能な仮説は、間違っているのではなく、間違いかどうかが確認できないような仮説である。したがって、反証された仮説は全て非科学的な仮説ではない。この段階において疑似科学となるのは、以下のようなものである。
- 反証不能であるにもかかわらず科学的であると称する場合、または科学的であるとは称していないが科学理論だと誤認されやすい場合。
- 主張者がそもそも仮説の真偽を問題にしておらず、自己の主張によって他人に不利益を蒙らせることが主たる目的になっている場合。例えば詐欺がこれに当たる。
もっとも、ある仮説を科学的仮説とみなすか否かについては、主張者の主観が大きく影響することもあり、一概に反証可能性があるから検証にかけられるとは言えない。例えば、伝統行事などを説明するにあたって先祖の霊や地元の神などが引き合いに出されることがある。しかし、このような事案を検証にかけた上で疑似科学であると認定することは困難である。なぜなら、主張者自身が伝統行事を科学理論だと普通は思わないからである。また、自己の仮説は科学ではないと主張しながら一方で何らかの事実をその根拠に挙げることにより、反証可能性を否定しかつ肯定しているという自己矛盾に陥る論者も想定しうる。後者の場合には、逆に、仮説の主張者の主観を離れて認定を行う必要があろう。
なお、非科学的な仮説が全て無意味な仮説かどうかについては議論がある。論理実証主義は、非科学的な仮説は全て無意味であるとする。反対に、ポパーは、非科学的であっても一定の形而上学的な仮説には意味があるとする。例えば、自然の斉一性の原理、実験の対象に関する実在論、客観的真理の存在の承認などは、反証可能な仮説ではなく、むしろ科学の基本的な前提である。
検証
このように、反証可能性だけでは大雑把な振るい分けしかできない。この時点では、統計的に正しいと主張する占星術や必ず霊を呼び出すことができると主張する降霊術なども科学的な仮説に含まれる。これらは、統計や実験による反証可能性を有しているからである。実際にある仮説が疑似科学なのかそうでないのかを識別する基準は、検証段階および検証後の段階にあると言ってよい。検証段階では、以下のようなものが疑似科学に当たる。
これに対して、反証された仮説はそれだけでは疑似科学とはならない。このことは、過去の科学技術史において多くの仮説が反証されてきたが、それらが全て疑似科学とは呼ばれていないことからも明らかである。
検証後
反証されなかった仮説は、とりあえず合理的で尤もらしい仮説として科学の中へ取り込まれる。データの捏造などによって検証をくぐり抜けた仮説が、後から正しいデータによって反証されることもありうる(ヘンドリック・シェーン事件など)。したがって、検証というプロセスはどこかで絶対的に終わるものではない。そして、仮説の絶対的確定がない以上、科学と疑似科学を真偽によって認定するのは不可能である。したがって、科学も疑似科学も仮説として誤りうるものであるから実質的な境界線はないということはできない。
逆に、反証された仮説は、間違った仮説として科学の領域から取り除かれる。ここで、一旦反証された仮説を改善することによって、もう一度検証にチャレンジすることは当然に認められる。但し、その改善にあたってアド・ホックな仮説を追加し、反証不能にしてしまった場合には、非科学的な仮説になるとともに、疑似科学になる虞もある。この段階において疑似科学と認められるのは、以下のようなものである。
- 反証をなかったことにする場合。
- 反証されたことを単に知らずに、既成の科学理論だと誤認している場合。
(ポイントとしては、当事者の主観と第三者の観点から見た場合の区分けを一応してみました。が、これはとても難しいですね。過去ログの議論も参考にしています。この括弧で囲まれた部分は掲載されません。)--Inabasan 2008年3月8日 (土) 06:45 (UTC)